讃岐国寒川郡志度浦(香川県さぬき市志度)生まれ。
1728(享保13)年-1779(安永8年12月18日) 52歳
蘭学者、本草学者、作家、画家、博物学者、戯作者、発明家、陶芸家
学芸百般、多才・異能の人。
好奇心を絶やさず、和・漢・蘭全ての学問・文芸に挑戦した偉人。
高松藩足軽身分の家に生まれる。
好奇心旺盛な性格で、12歳頃には、からくり掛軸の「お神酒天神」を作成し、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。
また、俳諧グループに属して俳句なども行う。
1749年(22歳)に父の死により家督を継ぎ、平賀姓を名乗る。
1752年(25歳)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後、27歳頃に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎え家督を譲る。
1755年(28歳)頃に、量程器を作製、また藩の重臣の求めで磁針器を作製した。
その後、大坂、京都で学び、さらに1756年(29歳)には江戸に出て本草学者田村元雄に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して湯島聖堂に寄宿する。
その後、二度目の長崎遊学、鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。
物産博覧会を度々開催し、江戸においては知名度も上がり、杉田玄白らと交友する。高松藩の家臣として再登用されるが、学問に専念するために辞職する。
1763年(36歳)には『物類品隲』を刊行。賀茂真淵にも入門。また、石綿を素材に防火布のオリジナルともいえる「火浣布(かかんぷ)」や、寒暖計を製作するなど自然科学分野でも名をあげる。
戯作者としても才筆を振るい、肩のこらない読み物「風流志道軒伝」6巻や、浄瑠璃本「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」などで封建社会を風刺し、戯作者の元祖の一人にも数えられている。
1773年(46歳)には秋田藩主佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝え、「秋田蘭画」が開花。「秋田蘭画」は、西洋画法の祖、司馬江漢(しばこうかん)にも影響を与えた。
1776年(49歳)には長崎で手に入れたエレキテル(摩擦起電気)の復元に成功する。
1778年(52歳)、2人を殺傷して投獄され、翌年獄死、享年52。
平賀源内先生遺品館の銅像・台石正面には、源内の親友、杉田玄白の言葉が刻まれている。
「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」
非常の人とは、普通の人ではなく、凡人の域を遙かに超えた人、という意味
源内は「天竺浪人」と自ら名乗ったように、本能のままに生きた自由人であった。
平賀源内先生遺品館・旧邸(香川県さぬき市志度)
エレキテル所蔵・逓信総合博物館(東京都千代田区大手町2-3-1)
源内の描いた現存する唯一の油彩画・神戸市立博物館(兵庫県神戸市中央区京町24)
平賀源内墓所・浅草総泉寺跡(東京都台東区橋場2-22-2)
平賀源内墓所・微雲窟自性院(香川県さぬき市志度 1105)
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