京都の偉人

【心学の父】石田梅岩(いしだ・ばいがん)・京都の偉人

石田梅岩(いしだ・ばいがん)・京都の偉人

丹波国桑田郡東懸村(京都府亀岡市東別院町)生まれ。

貞享2年(1685)9月15日‐延享元年(1744)9月24日 60歳

町人思想家、石門心学の創始者で「心学の父」である。
「心学」とは儒教・仏教・神道・道教の説を取り入れ、庶民の日常生活の中に取り入れたもの。
「損して得とれ」「負けるが勝ち」とは梅岩が説いた言葉という。

通称は勘平、梅岩は号。

百姓の家の次男に生まれ、11歳から京都の商家に奉公しながら勉学と思索に努めた。

石田梅岩 (人物叢書)

おいたち

先生名は興長、一名は梅岩、呼名は勘平、石田氏なり。
父の名は浄心、母は角氏の娘なり。
貞享二年乙丑9月15日、丹波桑田郡東懸村に生れたまへり。

梅岩の歿後、その直門斎藤北山・小森売布・杉浦止斎らが相寄って資料を集め、一応の草稿をまとめたものをもとに、さらに手島堵庵・富岡以直の両人が主となって校訂を加えて出来上った『石田先生事蹟』は、その冒頭に梅岩の出生について右のように記している。
まことに簡にして要を得、一言の蛇足をも要しないようであるが、後人のためにいささか註解を加えることとしよう。
まず東懸村というのは一に東掛とも書かれ、現在(昭和三〇年以来)は亀岡市に併合されて、その東別院町の一部となっているが、市街地からは全くかけ離れた山間の一小部落で、JR山陰線亀岡駅から西南約10キロ、近ごろは一日数回のバスも通うようになったが、久しい間、低いながらも小さな峠道を徒歩で越えねばならなかった。
村から南へ同じく山間の小径をたどると大阪府(摂津)の茨木や高槻へも通じており、そうした関係で維新前には亀山(亀岡)藩(松平氏)ではなくて、高槻藩(永井氏)に属していた。

35、6歳の頃に、隠士小栗了雲に師事、心学の根本である人性の開悟、自身の心と世界の一体性を目覚し、45歳のとき自宅に講席を開いて教化活動を開始した。

謝礼をとらず、紹介をも要せぬ、全く自由な講義で、はじめはほとんど聴講者もなかったが、少しずつ門弟が増えて、大坂などに招かれて出講するまでになった。

朱子学に由来する用語を多く使い、勤勉、倹約、正直、孝行などの通俗倫理による人間の道徳的自己規律を説いた。

商人をはじめ四民の社会的役割を指摘し、賤商観を克服し庶民の人間としての尊厳を強調するなど、社会的に成長してきた町民を主とする庶民層の意識を自覚的に思想化した。

日本を創った12人 (PHP文庫)

石田梅岩(勘平)は「石門心学」の始祖である石門心学とは、「石田派の心の学」の意味だ。現在ではさほど知られていないが、その門流の講釈所[心学塾」は、江戸時代の後半から明治初期まで全国にあり、大きな勢力を持った精神修養団体だった。もちろん武士や大名も参加したが、石門心学の説く清廉で勤勉な精神は圧倒的に庶民の中に広まり、「勤勉と倹約」という町人哲学を生み出した。
この石門心学のもたらした庶民の哲学は、今日の日本人の美意識、倫理観、生活様式や人間評価に深い影響を与えているだけではなく、この国独特の勤労観を決定づけ、商品に対する評価や消費財市場の形態にまで大きな影響を与えている。現在でも、貿易摩擦や日本のハイコスト体質が問題になる場面では、様々な形で石門心学の影が見られる。石門心学を創唱した石田梅岩は、現代の「日本を創った」人物として欠くことのできない一人なのだ。

では一体、石田梅岩が説いたのは何であったか。まさに勤勉に働くこと、倹約して清貧に生きること。そして勤勉と倹約の二つを両立させるにはどうすべきか、という問題への解答だった。単に勤勉だけでなく、同時に倹約を説き、その両立を目指す倫理を発表したところが重要である。
その根源は、彼が独自に考えた「諸業即修行」に集約できる。勤勉に働くことは人生修行だ、というのである。「諸業」つまり農民なら農耕、商人なら商い、職人なら物づくり、何でもいいからその生業に勤勧に携わっていると、自らの人格が修行される。したがって、そのためには生産性を無視してもよいのではないか、というのだ。梅岩の言葉を集約したものとして、よくいわれるのは、「人、三刻働きて三石の米を得る。われ、四刻働きて三石と一升を得。なんとすばらしき」
他人が日に六時間働いて三石の米を収穫した、自分は毎日八時間働いて三石と一升の米を穫った、これはすばらしい喜びであるという意味だ。ここでの「働き」は、生産に関心が置かれているのではなく、人格修行、人としてのあり方を示したものと解すべきであろう。

その主書『都鄙問答』四巻は、毎月門弟たちを集めて開いた塾会(月次会)における師弟の問答をもとに成立したもので、町人に町人の道のあることを知らせんために公にしたといわれる。

京都 (全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記―ふるさとの人と知恵)

「都鄙問答」は梅岩と門弟・聴衆との質疑応答をもとにして、心学に批判・不審を持つ人の質問にいちいち答えるという体裁をとっていますが、その一節に次のような問答があります。
「商人などというものは欲深で、常に貪ることだけをしている。それに対して無欲を説くなどは矛盾もはなはだしい。それを承知で教えているあなたは、とんだくわせ者だ」
「そうではない。商人の中でも道を知らぬ者が、貪ること一方で家を亡ぼしてしまうのだ。商人としての道を知れば、欲心を離れ、仁心を持って努力し、道にかなって繁盛することができる。それが私の学問の効用なのだ」(第十五段)
商人の社会的存在価値を理論的に明らかにし、しかも正道の商法こそが繁栄の条件であると説いた梅岩の教えは、商人たちの大きな共感を呼んで石門心学は発展の一途をたどっていきました。

ドラッカーに先駆けた 江戸商人の思想

石田梅岩の『都鄙問答』になかに中「商人の道を問の段」というのがある。それは次の質問から始まっている。

「私どもは商売を仕事として一生懸命仕事に励んでおります。しかし商人は下賎のものだ、けしからぬというお叱リの声を聞くことが多く、どういう考えで仕事を進めていったら良いものか悩んでおります。商人道にかなう生き方とはどういうものか是非教えてください」

商人の声を代表しての質問である。
これに対して梅岩は次のようなことから説き起こしている。

「商売の最初の起こりを云うならば、昔はある地域では余ったものを他の地域の足らないものと交換するところから始まったと聞いています」

今回の世界金融危機は100年に1度の危機だと言われ、戦後初めて欠損決算という企業も多く見られた。そんな大危機に臨んで、いま多くの企業で「原点回帰」ということが言われている。
石田梅岩もここで商売の「原点回帰」から出発しているのである。

「商人は算用に明るく、それを得意として仕事をしている身なのだから、一銭のお金もおろそかにせず、その一銭一銭を積み重ねて富を作るのが商人の道なのです」

この答えの切り出しは、今の感覚で言えば当たり前のことである。だからつい読み過ごしがちであるが、「富をなすのは商人の道」だという言葉は、当時の風潮からみると非常に大胆な発言だった。なぜなら「富をなす」という表現はその当時「お金儲けをする」と受け止められ、商人としては禁句に近い表現だったからである。しかし彼はあえてその表現を使った。

石門心学の思想

延享元年(1744)9月24日、梅岩は独身のまま過ごした60年にわたる生涯をおえた。『石田先生事蹟』は最晩年の梅岩の様子を、次のように伝えている。

先生五十歳の頃までは、人に対し居給ふに、何にても意にたがひたる事あれば、にがり顔し給ふ様に見えしが、五十余になりたまひては、意に違ひたるか、違はざるかの気色、少しも見え給はず、六十歳の頃我今は楽になりたりとのたまへり。(『全集』下六三四頁)

「我今は楽になりたり」とは、同じく『石田先生事蹟』が

先生書を見ゐたまふに、近所の小童来りて、たはぶれに外より案内をこへば、答へして出で給ふ。小童是を笑ひ、はしり逃げて、また来り前のごとくすれば、先生もまた始のごとく、答へして出でたまへり。(同前六三〇頁)

と伝えるエピソードに示されるように、「私知」や「私意」をまったく挟まずに、すなわち「万事物の法に隨」って世界に対することが可能になったということであろう。それにしても、「近所の小童」の呼ぶ声に繰り返し応ずる梅岩の姿に何やら空恐しいものを感じてしまうのは私だけであろうか。「十四、五ノ頃フト心付」いたことを出発点とする梅岩の長きにわたる自己変革の旅の終着点は、このようなものであったのである。

石田梅岩生誕地碑・梅岩公園・墓所(京都府亀岡市東別院町東掛)
梅岩の生誕地には、今でも彼の生家が残る。

春現寺(京都府亀岡市東別院町東掛)
梅岩の命日9月24日には生家近くの春現寺で「石田梅岩墓前祭」が行なわれる。

石田梅岩道(石田梅岩生誕地~JR亀岡駅)

石田梅岩記念施設「梅岩塾」(道の駅ガレリアかめおか・京都府亀岡市余部町宝久保1-1)

石田梅岩座像(JR亀岡駅改札前・京都府亀岡市追分町谷筋1-1)

石田梅岩邸跡碑(京都府京都市中京区堺町通蛸薬師上ル東側)

石田梅岩先生顕彰会

石田梅岩像(菅原神社・大阪府堺市堺区戎之町東2丁1-38)

心学明誠舎跡碑(大阪府大阪市中央区島之内1-21-20)

石田梅岩供養墓(大蓮寺・大阪府大阪市天王寺区下寺町1-1-30)
大阪の梅岩の門下生らにより建てられた。

石田梅岩墓所(鳥辺山墓地・京都府京都市東山区五条橋東6・五条坂東とりべ山)

魂の商人 石田梅岩が語ったこと
山岡正義
サンマーク出版
2014-08-11




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