河井継之助(かわい・つぐのすけ)・新潟の偉人
長岡藩・長岡城下(長岡市長町)生まれ。
1827(文政10年1月1日)-1868( 慶応4年<明治元年>8月16日)42歳
越後長岡藩の家老上席、軍事総督。号は蒼龍窟。
近代国家を見据えた改革者・『長岡の蒼龍』。
長岡の蒼龍
藩校の崇徳館などで朱子学を学ぶが、後に陽明学に傾倒する。
江戸に出て佐久間象山に学び、備中松山を訪ねて山田方谷の教えを受けた後に帰郷。
後に、長岡藩の上席家老となり、藩政改革を断行。藩の財力を養い、雄藩も目を見張る近代武装を成し遂げた。
戊辰戦争では、中立を唱えたが受け入れられず、遂に抗戦を決意。軍事総督となり、巧みな戦術で一旦は敵の手に落ちた長岡城を、奇襲で奪還。しかし、次第にふくれあがる敵の兵力には太刀打ちできず、再度の落城で長岡軍は会津へと向かう。
継之助も被弾しながらも会津へ敗走するが途中、塩沢村(福島県只見町)で悲運の最期を遂げた。
幕末の風雲を駆け抜けた継之助の生涯をまとめた司馬遼太郎の『峠』は有名。
「幕末の人材を眺めていて、どう考えても河井継之助という者は、木戸孝允より三倍ほど上でした。 もし彼が、薩摩か長州に生まれていれば、お札に顔が印刷されていただろうと思います。」(司馬遼太郎)
河井継之助、29歳のとき、詠んだ詩。
十七誓天擬補国(十七天に誓い 補国に擬す)
春秋廿九宿心(春秋二十九 宿心たおる)
千載此機可得難(千載この機得ること難かるべし)
世味知来長大息(世味知り来って 長く大息す)
河井継之助ゆかりの地
河井継之助邸跡<生誕地>(長岡市長町)
河井継之助記念館・墓所<塩沢医王寺>(福島県南会津郡只見町塩沢字上の台850-5)
河井継之助墓所・栄凉寺(長岡市東神田3-5-6)
河井継之助墓所・建福寺(福島県会津若松市)
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