近藤真琴(こんどう まこと)・三重の偉人
鳥羽藩士の子に生まれる。
鳥羽藩江戸屋敷(麹町)生まれ。天保2年(1831)9月24日―明治19年(1886)9月4日 56歳
日本商船教育の先駆者として「商船教育の父」と称される。
日本における航海術、測量学の基礎を確立。
明治六大教育家のひとり。
蘭学を志し、高松譲庵、続いて村田蔵六(大村益次郎)に師事した。
幕末に幕府設立の軍艦操練所で航海術や数学を学び、鳥羽藩江戸屋敷内に蘭学塾を開き教えていたが、築地海軍操練所へ塾を移転し、攻玉塾(現・攻玉社中学、高校)と名称変更。
海軍兵学校の予備教育機関としての役目を果たし、上村彦之丞、鈴木貫太郎、財部彪、加藤寛治、広瀬武夫、佐久間勉など海軍軍人を輩出、また建築学者の中村達太郎、水産学者の岡村金太郎、地理学者の志賀重昂、歌人の吉井勇などを出した。
さらに、日本初の商船学校となる航海測量習練所(現・国立鳥羽商船高等専門学校)を竹芝に開設した。
また、日本初の翻訳SF小説『新未来記』を発刊した。かな文字普及にも努め、「かなのくわい」の活動に参加し、『ことばのその』を発刊した。
幼稚園教育紹介なども行った。文久3年(1863)、近藤真琴は自宅にささやかな蘭学塾を開き、これを為錯塾と称した。
のちの攻玉社である。
攻玉社は、洋学ことに測量術・航海術を教授する異色の学校として発展し、そこから日本海軍の中核となる人材が多く巣立っていった。
攻玉社は商船こう・陸地測量習練所・女子科なども併設し、明治初期の三大塾に数えられた。
近藤真琴の教育者としての偉大さは、海軍軍人の養成にとどまることなく多彩であった。
近藤真琴墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
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