奈良の偉人

中村直三(なかむら なおぞう)・奈良の偉人

大和国山辺郡永原村(現・天理市永原町)生まれ。

1819(文政2年3月8日)-1882(明治15)年8月13日 64歳

「明治の三老農」のひとり。
農事改良を通して「国益」の実現をめざした農業指導者。

香川の奈良専二、群馬の船津伝次平とともに、明治三老農の一人に数えられる中村直三は、文政2年(1819)に、善五郎・サカ夫妻の長男に生まれた。

直三が農事改良活動を本格的に行うようになったのは幕末のことであるが、これには、後年に彼自身が記しているように、天保凶作時の体験が大きく影響していた。当時十代後半であった彼が目にしたのは、飯米の供給を他国にも仰がねばならない状況のもと、連年の凶作により生じた「貧民餓死夥敷(おびただしき)」有様であり、彼は「全く農事ニ不行届より右様ニ立至り候」と、農事改良の必要性を痛感するようになったのである。

直三は安政2年(1855)に父のあとをついだが、その後大和では、開港の影響で綿業が大きな打撃を受けるとともに、米穀をはじめとする猛烈な物価騰貴が人々を直撃するようになり、町や村に窮民が満ちあふれるようになった。

こうした状況下、大和の各地で打ちこわしや騒動が発生するようになり、永原村でも同6年の越訴のあと不穏な情勢が続き、強訴が発生しかねない状況となったが、直三は村役人とともにこれを制止し、村民に農事改良を行い増産することこそが大切であると説き、自らその推進に精魂をかたむけるようになった。

直三は、文久2年(1862)の『勧農微志(かんのうびし)』を皮切りに、明治初年にかけて続々と農事に関する指導書を著している。その主眼は、「命の親」たる主穀の品種改良(増産)にあり、多くの農民が関心をもって彼の著作を読み実践してくれるよう、漢字にはふりがなを付け、絵や図を入れ、稲の各品種の反収(比較実験の結果)を番付表の形式で示し、伊勢の木綿屋定七(後の岡山友清)のやり方に学んでビラの形で配布するなど、様々な工夫をこらしている。農事改良活動を通して直三がめざしたのは、永原村のみならず「大和国中」の「徳益」の実現(『勧農微志』)であり、彼の活動は大和の数多くの老農たちによって支えられていた。

言いかえれば、彼は大和の老農のネットワークの中核に位置したのであり、彼の手元には続々と稲の良品種が集まるようになったのである。また、彼の活動を資金面でも支えた「増作願主」(彼が信奉した心学の仲間や篤志家)の存在も注目される。

この後、直三は、明治に入り、大和の各藩に招かれて農事改良指導を行った後、廃藩置県後には、奈良県勧業下用掛などの役職について積極的な活動を展開するようになった。

その名声は全国に鳴り響き、同10年(1877)以降には、活動の場は秋田をはじめ「東ハ宮城、北ハ石川・福井、南ハ大分ノ諸県」にひろがったが、直三が地元大和(奈良)の「国益」の増進にはたした役割はまことに大きく、明治後期からの「奈良段階」(奈良県の米の反収が全国第一位)形成の土台をしっかりと築き上げたと言うことができよう。

明治15年(1882)にコレラにて逝去。享年64歳。(県政だより奈良より)

奈良県庁・東交差点北東には中村直三農功之碑がある。

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