伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)生まれ。
1866年7月20日(慶応2年6月9日)-1936(昭和11)年4月8日 70歳
飛行原理の発見者。日本飛行機の父。
ライト兄弟より12年前に動力飛行に成功した日本航空界生みの親。
1866(慶応2)年6月9日
愛媛県八幡浜市矢野町(旧・八幡浜浦矢野町44番地)で海産物問屋を営む家に生まれる。子供の頃から探究心の強い少年であった。
1878(明治11)年
【12歳】家は裕福であったが、後に家運が傾き、再建に奔走した父も忠八が12歳のとき亡くなり、小学校を卒業後奉公に出て、町の雑貨店や印刷所の文選工として働く。
1880(明治13)年
【14歳】北宇和群明治村字松丸で薬屋を開業の伯父の家で働き、薬学の基礎を学ぶ。三瀬万年に国漢を、野田青石に南画を学び、学資を得るため自分で考案した10種類の凧を作って売り、“忠八ダコ”と呼ばれ人気を呼ぶ。
1886(明治19)年
【20歳】薬種商を営む伯父の手伝いをしていたが、八幡浜の家業を手伝うことにした。
1887(明治20)年
【21歳】香川県・丸亀歩兵第12連隊第1大隊の看護卒(衛生兵)として陸軍に入隊した。
1889(明治22)年
【23歳】4月、上等兵に昇進。そして11月9日、秋季機動演習の帰途、香川県仲多度郡十郷村の樅の木峠で昼食をとりながらカラスの群れが飛ぶのを見て航空力学の原理を発見し、発明のヒントを得る。その日以来、忠八は夢の実現に向けて昼夜を問わず研究に没頭し、船のスクリュウーにヒントを得たプロペラ、滑走用の3つの車輪、聴診器のゴム管を細かく切り動力とした、最初の模型飛行器“烏(からす)型模型飛行器” (ゴムを動力とし、プロペラは4枚羽根)を完成させた。(「飛行器」は忠八の命名である。)
1891(明治24)年
【25歳】4月29日夕、丸亀練兵場で“烏型模型飛行器”の飛翔実験に成功。第1回目に5間余(10m)の距離を飛ぶ。アメリカでライト兄弟が飛行実験に成功する12年前、動力による人工翼が空中を飛行した 日本最初 のできごとであり、現代の飛行原理へとつながるものであった。6月20日、松山出身の深見寿世と結婚。
1892(明治25)年
【26歳】人間の搭乗できる人力飛行機の構想を練り、玉虫から学んだ原理に基づき設計し、 複葉の“玉虫型飛行器”の作製に着手する。
1893(明治26)年
【27歳】10月5日、“玉虫型飛行器”を完成。12月、一等調剤手(曹長) に進級、松山衛戍病院に転勤する。機体を解体して松山に運ぶ。
1894(明治27)年
【28歳】日清戦争が起こり、混成旅団第一野戦病院付として従軍。通信・偵察等に飛行機の必要を痛感し設計図を作成。一兵士の身分では資材を購入するための多額の資金を賄い切れるはずもないので、8月19日、上司を通して大島混成旅団長あてに上申書を提出したが却下される。初秋の頃赤痢にかかり、10月下旬内地後送となり広島の予備病院で療養、全快後、当病院に勤務する。
1896(明治29)年
【30歳】8月ころ大島将軍に直接面会し、飛行機の採用ならびに専門家による研究で完成するよう願い出たが再び却下される。
1898(明治31)年
【32歳】4月、自力で資金を蓄えるべく、軍籍を離れ、5月、大阪に出て大日本製薬会社(月給15円)に入社、薬業に専念し品質のよい薬品の製造に心を注ぐ。のちに大阪製薬(株)を設立、社長に就任。
1901(明治34)年
【35歳】夏、京都府八幡町に自宅を建て大阪より転居。
1902(明治35)年
【36歳】八幡町で旧精米所を買い入れ、石油発動機つき飛行機の設計に取り組む。
1903(明治36)年
【37歳】アメリカのライト兄弟の有人飛行実験成功を聞き男泣きに泣く。独力完成を断念し、製作中の飛行機をハンマーで破壊。以後飛行機の研究から一切身を引く。
1915(大正4)年
【49歳】3月10日に発願して航空機殉難者の霊を屋内に祭る。
1919(大正8)年
【53歳】11月、白川義則将軍の手を通じ、忠八の発見が合理的な天才的考案であることが専門家によって証明される。上申書を却下した長岡外史将軍も非礼を詫びて、後に忠八の許を訪れた。
1925(大正14)年
【59歳】9月17日、香川県樅の木峠忠八顕彰記念碑が建立され、逓信大臣より表彰状を受ける。この年、“飛行神社”の工事に着手。
1926(大正15)年
【60歳】3月9日、八幡浜町より歓迎祝宴を受ける。 5月25日、帝国飛行協会より有功賞を受賞。この年、八幡浜町大平に「斐光園」の記念碑建立。
1927(昭和2)年
【61歳】12月、勳六等に叙せられ瑞宝章を受ける。
1928(昭和3)年
【62歳】この年、斐光園に「合理飛機濫觴」・「斐光園誌」の碑を建立。
1931(昭和6)年
【65歳】この年、朝鮮京城府竜山孝昌園(上申書提出のゆかりの地)に「合理飛行機発祥之地」の碑を建立。
1932(昭和7)年
【66歳】2月、京城・奉天・大連・青島・上海などを次男(顕次郎)と旅行する。この年、飛行神社完成。
1936(昭和11)年
【70歳】2月26日(2・26事件の日)、京大病院で開腹手術し癌と判明、4月8日死去。
1937(昭和12)年 小学校の教科書に「飛行機の発達」と題して玉虫飛行器設計の話が載る。
晩年、忠八は一度だけ飛行機に乗り、その時の感想を次のように家人に漏らしたという。「若い頃、毎晩飛行機に乗った夢を見、この頃でも時々見るが、今始めて空を飛んだ気持ちは、夢で見たのと少しも違わなかった。」
(参考・八幡浜市HP)
二宮忠八生誕地(八幡浜市矢野町)
八幡浜市民図書館・郷土資料室(2階)の一角に<忠八コーナー>
斐光園(八幡浜市)
二宮忠八飛行館(香川県仲多度郡まんのう町追上)
飛行神社(京都府八幡市)
二宮忠八墓所(八幡市八幡高坊)
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