神奈川の偉人

尾崎行雄(おざき ゆきお)・神奈川の偉人

神奈川県津久井郡中野村又野(相模原市津久井町又野)生まれ。

1858(安政5)年12月24日-1954年(昭和29)年10月6日 95歳

政治家。衆議院名誉議員第1号、東京都名誉都民第1号。永年在職議員表彰第1号。
「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれている。

真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた偉大な政治家である。
号は咢堂(がくどう)。

11歳まで神奈川・中野村の生家で過ごした後、父が三重県の役人となったため三重県宇治山田に移る。

共立学校を経て慶応義塾に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗し退学、東京大学工学部に再入学。

新聞記者を経て、1882年立憲改進党の創立に参加。

1890年、第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という世界議会史上の記録を打ち立てた。

1898年、40歳の若さで、大隈重信内閣の文部大臣に就任するが、共和演説事件で文相を辞任し、ついで大隈内閣も総辞職した。

1903年から1912年まで東京市長。

1914年、桂太郎首相弾劾演説を行い大正政変のきっかけとなる。
政変後に離党し、以後中正会・憲政会と移る。第2次大隈内閣では司法大臣。

大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加、また、婦人参政権運動を支援、さらに軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった。

民主政治の確立を目指し、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護運動が起こると、「憲政の神」と呼ばれる。また、軍国主義支配が進んでも、平和の信念を曲げず、国に警告し続けた。そして「世界連邦」を提唱し、議会政治の父と仰がた。民主主義の普及と世界平和の確立のために尽力した生涯であった。

尾崎行雄の言葉・「投票の心得」
「何よりもまづ、自分はいかなる政治を希望するかという自分の意思を、はっきり決めてかかることが大切である。選挙は国民の意思を国政に反映させるために行われるというが、有権者それ自身に政治的意欲がなければ、すなわち反映する本体がなくては、いくら投票しても意味がない。」

尾崎行雄89歳のときの言葉・「善悪の標準」。
「良い国か悪い国かの判断基準は、多数の人の幸福を増すか、それとも減らしてしまうかによって決まるものだ。」

尾崎行雄の人生観
「人生の本舞台は常に将来に在り」
何歳になっても、これまでの人生は序幕にすぎない。これからが本舞台なのだ、という意味で。「人間は年をとればとるほど、その前途は輝かしい」という人生観である。 

尾崎咢堂記念館・生家(神奈川県相模原市津久井町又野691・旧津久井町)

尾崎咢堂記念館(三重県伊勢市川端町97-2)

尾崎行雄記念碑(神奈川県逗子市新宿5-4-1・披露山公園)

尾崎行雄記念財団HP

尾崎行雄墓所・円覚寺黄梅院(神奈川県鎌倉市山ノ内)

関連書籍

人気ランキング応援クリック!ご協力お願いします。

関連記事

  1. 伊藤鶴吉(いとう つるきち)・神奈川の偉人
  2. 北条早雲(ほうじょう そううん)・神奈川/岡山の偉人
  3. 二宮尊徳(にのみや そんとく)・神奈川の偉人
  4. 北村透谷(きたむら とうこく)・神奈川の偉人
  5. 大江卓(おおえ・たく)・高知の偉人

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

ピックアップ記事

  1. 華岡青洲(はなおか せいしゅう)| 和歌山の偉人

江戸の偉人たち

PAGE TOP