大坂生まれ。広島ゆかりの偉人。
1780(安永9年12月27日)-1832(天保3年9月23日) 53歳
江戸後期の歴史家、陽明学者、詩人。
安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は実子。
大坂で私塾「青山社」を開いていた頼春水の子に生まれる。春水が広島藩の儒学者として登用されたため広島へ移住。幼少のときより詩文の才能を示す。
山陽13歳のときつくった詩。
十有三の春秋 逝く者は已に水の如し
天地 始終無く 人生 生死有り
安んぞ古人に類して 千載 青史に列するを得ん
「顧みれば13年の年月は川の水の如く流れ去った。天地に始まりと終わりはないが、人生には生死がある。どうかして、いにしえの聖賢のように,永久に歴史に名を残したいものだ。」
21歳で脱藩を企て、自宅へ幽閉され3年間著述に専念した。その後、父の親友の開いた廉塾の塾頭ととなるが、32歳のとき京都で塾を開く。
歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍した。歴史の分野では,没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えた。文学の分野では、数多くの詩文を作り、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」の詩や、天草洋の風景を詠んだ「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などは幅広く愛誦されている。また、美術の分野では、能書家として著名で、絵画についても「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画をのこした。陽明学者としても名高く、大塩平八郎にも大きな影響を与えた。
公且(か)つ誠(せい)なれば、則(すなわ)ち人心服す。人心服すれば、則ち天意従ふ。
「心が誠ならば、すべてのものが調和する。すべてのものが調和すれば、天の意志に通じる。」
頼山陽生誕地(大阪市西区江戸堀1-10 玉水記念館前)
頼山陽史跡資料館(広島市中区袋町5-15)
山紫水明処(さんしすいめいしょ) (京都市上京区)
頼惟清【山陽の祖父】・旧宅(広島県竹原市)
頼山陽墓所(京都市東山区・長楽寺)
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