江戸時代

【算聖】関孝和(せき たかかず)・群馬の偉人

【算聖】関孝和(せき たかかず)・群馬の偉人

上州藤岡(群馬県藤岡市)生まれ(江戸小石川生まれの説もあり)。

寛永19(1642)年あたりと推測―寛永5年(1708)10月24日

江戸時代初期の日本が誇る和算家(数学者)。『算聖』と称される。
その生涯を知る資料は余りにも少ない。

 

関孝和

筆算の父

武士の内山永明の子として生まれ、20代で関家の養子となり、関孝和と名乗る。やがて、幕府勘定方吟味役となる。孝和の生まれ育った寛永年間には、日本人の書いたはじめての数学書が出版された時期で、とくに吉田光由による「塵劫記」は当時の数学者を大いに刺激し、孝和も大いに刺激をうけ、進んで中国の書物をも研究した。

この中国の書物から学び、算木による天元術(代数学)に創意改良を加え、記号を使う筆算式の数学をつくりだした。これは現代にも通じるものであり、これによって和算は飛躍的な発展をみせた。その研究の1つである多元連立方程式の解法をまとめ、今日の行列式にたどりつく。これを発表した書物で、孝和の生涯唯一の著書といわれるのが「発微算法」(1674年)である。実にヨーロッパに先立つこと200年前のことである。さらにn次方程式の近似的な解を求める方法も発表。100年後イギリスのホーナーが発表した方法と同じである。この方法を使い11けたまでの正しい円周率3.14159265359を計算。

数学の多くの分野における理論的研究を行い、体系化を試みるなど卓越した業績を残したが、孝和以後、和算は発展させられなかった。それは和算があまりにも実用一点張りだったからといわれる。和算の狙いが実用と計算術そのものにあり、そこからニュートンのように運動の法則や本質を研究できなかったのである。折角獲得した和算の手法を次の大きな目的に向かって活かすことができなかった。

孝和の業績は我が国では「算聖」と呼ばれ、さらに同世代に出たイギリスのニュートン、ドイツのライプニッツと共に世界三大数学者として尊称されている。
寛永5年(1708)10月24日病のため亡くなり、新宿の浄輪寺に葬られています。

関孝和ゆかりの地

関孝和銅像・算聖碑 (群馬県藤岡市市民ホール)

関孝和墓所(光徳寺・群馬県藤岡市)
関孝和墓所(浄輪寺・東京都新宿区)

諏訪(秋葉)神社の算額 (群馬県藤岡市)

算聖伝―関孝和の生涯
算聖伝―関孝和の生涯

関孝和の数学
関孝和の数学

関孝和論序説
関孝和論序説

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