岐阜県加茂郡八百津町八百津生まれ。
1900(明治33)年1月1日-1986(昭和61)年7月31日 86歳
6000人の命を救った外交官。
1900(明治33)年:1月1日、父好水と母やつの二男として出生。八百津町で幼少時代を過ごし、その後、父の仕事の関係で三重県や名古屋市で生活する。
1917(大正6)年:愛知県立第五中学校を卒業後、父の希望により京城医学専門学校を受験するも、白紙答案を出し不合格となる。
1918(大正7)年:早稲田大学に入学したが、1919年中退し、外務省の留学生としてハルピンに留学。
1924(大正13)年:任外務書記生となり、2月満州里在勤命令、12月にはハルピン在勤命令がでる。
1932(昭和7)年:満州国外交部特派員公署事務官となり、翌年には北満州鉄道の譲渡を巡りソ連との交渉を始める。
1937(昭和12)年:ソ連勤務を命じられていたが、ソ連から入国を拒否され、フィンランドのヘルシンキ公使館勤務になる。
1939(昭和14)年:リトアニアの首都カウナスに領事館開設を命じられる。
1940(昭和15)年:7月、ユダヤ難民への日本通過ビザの大量発給を始め、8月26日までに、計2,139家族に日本通過ビザを出す。8月29日カウナス領事館を閉鎖。9月5日カウナス駅より国際列車にてベルリンへ出発。チェコのプラハ総領事館に勤務。
1941(昭和16)年:2月28日に、ドイツ領のケーニヒスベルグ総領事館勤務を命じられ、11月にはルーマニアのブカレスト公使館勤務を命じられる。
1945(昭和20)年:ブカレスト郊外の捕虜収容所に収監される。
1947(昭和22)年:4月に帰国(九州博多)。6月に外務省退官。
1960(昭和35)年:商社の事務所長としてモスクワ赴任。以後、会社を二度変わったが、引き続き現地で勤務。
1968(昭和43)年:千畝がビザを発給して助かったニシュリ氏と28年ぶりに再会する。 1969(昭和44)年:難民時代に杉原が助けたバルハフティク・イスラエル宗教大臣から勲章を受ける。
1975(昭和50)年:退職
1985(昭和60)年:イスラエル「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞。日本人では最初。
1986(昭和61)年:7月31日、神奈川県鎌倉で死去。
(八百津町HPより)
杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町八百津1071)
人道の丘(八百津町)
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