宮崎の偉人

安井息軒(やすい そっけん)・宮崎の偉人

清武郷中野(宮崎県清武町)生まれ。

江戸時代の儒学者。信念を貫いた大儒学者。
文久三博士のひとり。

 飫肥藩の藩儒、安井滄洲の次男として生まれる。幼少の頃より、息軒は、「父に負けない学者になろう」という大きな望みを持って学問を志していた。
 21歳のとき、大阪の篠崎小竹のもとで学び、26歳で江戸の昌平黌で学び、また松崎慊堂にも学ぶ。篠崎・松崎両先生とも、息軒先生の学識に大いに驚き、「弟子を以て之を視ず」と伝えられている。28歳で藩主侍読となり、清武の明教堂や飫肥藩の藩校・振徳堂で門下生の教育にあたった。

 39歳で再び江戸に出て、昌平黌に学びながら、私塾「三計(さんけい)塾」を開き、明治期に活躍する陸奥宗光や品川弥二郎や谷干城など2000人以上の門下生を育てた。時代を動かし新しい日本をつくる原動力となる人物を養成した。

 文久2年(1862)64歳のとき幕府直参となり、昌平黌教授に任じられる。朱子学派以外の学者(息軒は古学派)の任用は、前例なきことで、息軒の名声がいかに高かったかが分かるであろう。

 幕末には、「海防私議」という本を書いて、世界の最新の動きや世界各国の歴史を踏まえて、国の防衛について進言もした。また、産業の発展のため、自ら養蚕の盛んな土地に出かけ、実状を調査し、「養蚕・製糸」の技術を人々に広めた。また、江戸に出た後も飫肥藩に「天然痘の予防のための種痘」や「二期作」「養蚕・製糸業の振興」、「敬老のすすめ」など多くの進言を行っている。

 江戸の昌平坂学問所で学んでいた頃、朱子学の考えだけが正しいとされていた。しかし、息軒は、自分が疑問に思うところがあれば、古い書物を調べ、その根拠を発見していく方法が真の勉強であると信じ、古学を学んだ。しかし、他の塾生には理解されず、仲間から嫌なことを言われる。
 ある日、息軒は次のような和歌を作って、それとなく机の上に置いて席を立つ。その句には、「今は音を 忍ヶ丘のほととぎす いつか雲井の よそに名乗らむ」(今はいくら悪口を言われても、それを気にせずじっと我慢しているホトトギスのような自分であるが、いつか大空に羽ばたいて名をあげてやる)と書いてあった。これ以来、息軒に悪口を言う人はいなくなり、逆に一目おかれる存在になったという。

 
 息軒の教えの中に、「三計の教え」というのがある。これは息軒の開いた私塾「三計塾」の名にもなっているものだが、

『一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。』

 つまり、何事も初めが大事であるという考え方をもとにして、「今日という日は二度ともどらない。だから、一日一日を、その時その時を大切にしっかり勉強しなさい」という教えだ。息軒は「半地区三房学規(はんちくさんぼうがっき)」というきまりを作って、塾生に厳しい態度や考え方を示し、実行させたのである。

安井息軒生誕地・生家(宮崎県清武町)

きよたけ歴史館(清武町)

安井息軒墓所(東京都文京区・養源寺)

関連書籍
安井息軒は、明治の文豪・森鴎外の「安井夫人」に親しみ深く描かれている。

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