富山の偉人

横山源之助(よこやま げんのすけ)・富山の偉人

富山県下新川郡魚津町(魚津市)生まれ。

1871(明治4)年4月10日-1915(大正4)年6月3日 45歳

富山県出身のジャーナリスト。
下層社会の労働実態調査の先駆者。
「日本におけるルポルタージュの開祖」。

明治18年、富山中学校に入学するが、翌年、15歳の時に上京し、法律家を目指して英吉利法学校(現・中央大学)に入学。
司法試験につづけて失敗し法律家の途を断念し、放浪時代を送る。下宿を転々とし、禅寺に身を寄せたり、場末の木賃宿に起居する。
幸田露伴・二葉亭四迷・内田魯庵らと交友し、しだいに貧民・労働問題解決に目覚める。

1894(明治27)年、23歳のとき、毎日新聞(旧横浜毎日新聞、現在の毎日新聞ではない)へ入社。社会探訪記者として、『戦争と地方労役者』の連載記事を発表し、わが国初の近代戦争である日清戦争が地方末端の下層社会に与えた影響を多面的に報じた。以来、紙上に数多くの社会探訪記事を掲載。

そして、1899(明治32)年、日本の下層社会の実態調査を行い、1899年『日本之下層社会』を刊行。取材には、徹底した現場主義を貫き、貧民の生活を克明に記録し続けた。足で取材した現状と統計や財政を克明に調べた上での社会分析にも定評があり、「日本におけるルポルタージュの開祖」ともよばれる。

1900年には農商務省嘱託として『職工事情』の調査に参加。「職工事情」が官製と思えぬほどの、中立的な、きわめて客観的な、くわえてはなはだ柔軟な、ドキュメントに仕立て上げられていることは識者が認めるところである。「職工事情」をそのような官の枠を疑わせるほどのものにした、横山源之助らの陰の努力をみのがすことはできない。

その後、労働運動に戻り、片山潜ら社会主義労働運動家たちと交流するが、社会主義者にならず、あくまで客観的な視点に立つジャーナリストとして、文筆活動を行っていく。

社会・労働問題解決という主題を終生貫き、その解決口を、後年は殖民問題に傾注し、自ら1912(明治45)年、調査のためにブラジルへ渡航した。

1915(大正4)年6月、東京小石川で永眠。享年45歳。

生涯の知友であった内田魯庵はその死を、「陋巷(ろうこう)に窮死した」といっている。生前一時期、『日本之下層社会』を刊行し労働問題の第一人者とうたわれたとき以外、ほとんど報われることがなく、蔭に生きた、まさに陋巷の無冠の先駆者であった。

没後3年を経た1918(大正7)年、源之助の郷里の富山県魚津町を導火線に、米騒動が発生し、全国へと拡大したのは単なる偶然ではないのかもしれない。

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