山形の偉人

本間宗久(ほんま そうきゅう)・山形の偉人

出羽国酒田(山形県酒田市)生まれ。

1724(享保9)年-1803(享和3)年 87歳

江戸時代の相場師。『相場の神様』、『出羽の天狗』とよばれる。

『相場の神様』とまで讃えられ、不朽の名声を博した本間宗久は1725(享保9)年、日本屈指の穀倉地帯・出羽に生まれた。8代将軍吉宗の治世である。

23歳にて酒田の豪農・本間家の養子となり、そのとき名を宗久と号した。
後の本間三代当主・光丘が16歳の時である。そのとき光丘は宗久を「兄」と呼んでいたので、光丘の姉婿と云う説が主流となっている。

この類い希な才に秀でた兄宗久、統治に優れた弟光丘の二人により、本間家の財力は一桁も二桁も強大となり、名門本間家の事実上の創始者となる。

宗久の米相場での戦いぶりは常勝不敗、変幻自在な仕掛けと、徹頭徹尾理性に貫かれた相場道の確立により、相場の神様とまで讃えられ「出羽の天狗」との異名をとった。

上方を争覇した宗久は後に江戸蔵前に出で、その圧倒的強さは他を寄せ付けず、江戸の米穀問屋を震え上がらせ、文字通りその名を不動の物にした。

後に彼は本間光丘とともに「御勝手御用掛」に命じられ、さらには相模守を任ぜられ、武士としても上流の格式を持つ名誉を得る事になる。

『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』との唄として活躍は残り、当時の権勢と羽振りが偲ばれる。

その宗久の戦法は年々の記録を集積し、作柄の豊凶など、需給の分析を最重要視する、いわばテクニカルの始祖。決断面に優れ、勝負としての急所を始めて近代的に、今で言う統計学的手法にて極めて冷静に判断する一方、天底の勝負は苛烈を極め、勝利を不動の物とした。

この様に経験と果敢な決断は、現在誰にでもデータと分析、その蓄積によって宗久翁に限りなく近づくことは可能である。ゆえに万人に応用が利くため、残された三位伝は良質な古典としての風貌を今なおとどめ、現在も相場のしるべとして活用されている。

本間家ゆかりの地・酒田

本間宗久墓所・隋徳寺(東京都台東区下谷2-18-7)

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