福岡城下に生まれる。
1630(寛永7年11月)-1714(正徳4年8月27日) 85歳
万能の天才、『筑前の鴻儒』といわれた。
幼少の頃より勉学に優れる。19歳で、黒田藩に仕えるも2年後に藩主の怒りに触れ、 以後7年間は浪人生活を送る。その後、江戸、京都に出て、儒学の研究に専念。この間多くの学者と交わり、本草学(薬学)等を学ぶ。
36歳で、藩の儒官として新しく一家をたて、福岡に呼び戻された。
こうした長い年月の間に、医学も本草学も、儒学も地理学・歴史学も、ひろい分野にわたる学識を身につけていった。
その生涯で、おもな著述が99部・251巻ほどもあった。
とくに「養生訓」は有名だが、これを書いたのは84歳の時であった。
これまでの長い生活体験と、医学や儒学や、ひろい学問上の知識とを活かしているのである。「養生訓」は、ただひとすじに体の衛生を、理論として医学専門向きの本としてではなく、一般向きの生活心得書として著されている。この書が、出版をみた当時ばかりでなく、その後、永く広く、一般の人に愛読されたのも、このためであろう。
また、81歳のとき著した「和俗童子訓」は、益軒の教育思想が体系的にくみたてられている書物というばかりでなく、わが国における最初のまとまった教育論書といえるであろう。ここで展開された教育観・児童観とそれに基づく教育課程は、中世の教育とはきっぱり縁をたちきって、近世教育の礎となった。そして、それはまた、明治以降の近代社会の国民教育とも根深いところでつながる一線をさえ、うちだしているといえるであろう。
貝原益軒のことば
『人身は至りて貴とくおもくして、天下四海にもかへがたきものなり。』
『知って行わざるは知らざるに同じ。』
貝原益軒墓所と銅像・金龍禅寺(福岡市中央区今川)
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