讃岐三木郡牟礼(香川県高松市・旧牟礼町)生まれ。
1736(元文元)年 - 1807(文化4年12月1日) 74歳
江戸後期の儒学者。
『寛政の三博士』のひとり。
栗山の号は郷里の八栗山からつけられる。
幼少より高松藩儒後藤芝山に学び、18歳の時、江戸に出て昌平黌に学び、林家の業を受け、貧困と病苦の中にありながら志を捨てず、学識を深め、かたわら詩文を学んだ。
30歳の時、京都に遊学。その後32歳で徳島藩に招かれ、儒官となり、その世子の教育に尽力。 後、京都に移り家塾を開き、朱子学に傾倒する。
1788年、53歳のとき老中松平定信の推挙を受け、昌平黌の教官となり、岡田寒泉らと学制の改革に努力し、いわゆる「寛政異学の禁」の発令に大きな成果をあげた。
その後、将軍世子の侍読となり、事あるごとに諮問を受けたという。
一方、詩文にも長じ、唐宋の詩文を良く学び、多くの詩を作っている。
栗山記念館(香川県高松市・旧牟礼町)
柴野栗山墓所・大塚先儒墓所(東京都文京区大塚5-23-1)
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