江戸蛎殻町(東京都中央区日本橋)の安藤家中屋敷生まれ。
陸奥国磐城平藩(福島県いわき市)・第5代藩主
1820(文政2年11月25日)-1871(明治4年10月8日) 53歳
幕末の老中。久世広周と共に事実上の最高権力者。
1847(弘化4)年6月、父信由の死去によって藩主となった信正は、まず藩政の改革にとりかかる。出費を減らし、家臣の人員整理などを行い、藩の財政を立て直した。また、学問や武芸を大いに奨励し、藩校の施政堂から磐城三藩の学問の中心として、多くの人材を育てた。
1860(万延1)年正月老中に抜擢され、外国御用取扱を仰せ付けられた。大老井使直弼が桜田門外で水戸浪士らに暗殺されたのは、この年の3月3日であった。
老中久世広周と並んで幕閣の中心をなし、いわゆる久世・安藤幕閣を形成し、孝明天皇の妹・和宮と第14代将軍・徳川家茂を結婚させるという公武合体を実現させた。
また、この頃、アメリカ公使館通訳であったヘンリー・ヒュースケン殺害事件が起こっていたが、当時はアメリカが南北戦争で日本に介入できなかったこともあって、信正は無難にこれを処理することに成功した。また、諸外国と条約を結んだことから問題となっていた金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても防止政策を行なうなど、幕末の政局安定化に努めた。
和宮降嫁問題で、一部の尊王攘夷派からの非難をうけ、1862(文久2)年1月15日、水戸藩の浪士による坂下門外の変で襲撃されて負傷したが、一命は取り止めた。
その直後、包帯姿でイギリスの公使・ラザフォード・オールコックと会見した。オールコックは負傷しながらも幕府の権力者として意地を見せる信正の姿に感嘆したという。
幕府内の情勢がもはや自分の目ざすものでなくなったことをさとり、同年4月に老中職を辞任した。
晩年の信正は、無口で物静か、人との交際をさけて終日ものを言わない日も多かったという。夫人とともに東京で余命を過ごし、1870(明治4年10月8日)、その波乱にみちた生涯を終えた。
平城跡(福島県いわき市平旧城跡)
龍が城美術館(福島県いわき市平旧城跡27)
安藤信正銅像・松ヶ岡公園(いわき市平字薬王寺台3)
飯野八幡宮(いわき市平字八幡小路)
安藤信正墓所・良善寺(福島県いわき市平古鍛冶町)
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