奈良の偉人

土倉庄三郎(どくら しょうざぶろう)・奈良の偉人

吉野郡大滝村(奈良県吉野郡川上村大滝)生まれ。

1840(天保11)年4月-1917(大正6)年7月 78歳

吉野美林を築いた山林育成指導者
吉野林業の中興の祖で、『吉野林業の父』・『日本の造林王』とよばれる。

奈良県は県面積の70%は山林で覆われ林業の盛んな県である。特に南部の吉野地方は日本三大美林の一つで著名な吉野杉の産地で、江戸時代中ごろから植林による林業が盛んになり、建築用材以外に酒樽や家具の材料として使用されてきた。
近代になってこの吉野の山林の育成技術や搬出法に大きな足跡を遺したのが土倉庄三郎であった。

土倉庄三郎は1840(天保11)年4月、吉野郡大滝村(現、吉野郡川上村大滝)の山林地主の家に生まれた。父親も山林の経営にすぐれていたが、その影響を受けてか、庄三郎は16才で家督を継ぎ、まもなく吉野材木方の総代になり、林業の発展に力を入れている。

彼がまず最初に行なった事業は、産出される材木を市場に送り出す方法の改善であった。山深い吉野の奥地から材木を効率的に輸送することは、林業発展のためには重要なことであるが、庄三郎は筏(いかだ)流しの水路の整備を行なうために吉野川の改修を進めた。また川上村内の道路の建設にも力を入れ、沿道の山林地主に「青山二十分の一」と呼ばれる、山林評価額の二十分の一の金額を道路建設のために拠出するように説得し、自らも莫大な私財を投入して、道路を完成させた。
山林の造林法も研究し、苗木の密植とていねいな育成で優れた多くの材木を生産できるように工夫した。

1882(明治15)年には農商務大輔の品川弥二郎が川上村を訪れたおり、庄三郎は杉実の播種法や造林法を説明し、品川は大いに感嘆したという。

その造林育成の技術を地元の吉野だけに生かすのではなく、全国の山林を見て歩き、指導・講演を行ない、造林の実践を行なった。特に静岡県天竜川流域、群馬県伊香保、滋賀県塩津、奈良県西吉野、兵庫県但馬、ついには台湾にも出かけ、その指導の結果林業生産が各地で成果をあげている。
奈良公園の森林改良についての意見書も出している。

晩年には川上村長として村有林の育成をも行なった。
1898(明治31)年に出版された森庄一郎著『吉野林業全書』の内容は庄三郎の造林法もかなり入っており、その刊行にも援助している。

庄三郎の業績は、林業の育成による地場産業の発展であったが、他方では広い視野で社会の動きを見ていた。それは当時の多くの政治家や社会運動家との交流からもわかる。

明治10年代から20年代は自由民権運動が盛んであった。その運動に理解を示し、運動家への援助を惜しまなかった。自由民権運動で有名な自由党の党首板垣退助と交流があり、西欧への視察の旅費を援助したことは有名である。

また立憲政党活動をしていた中島信行が新聞を発行するというので、その資金を提供し、果ては朝鮮独立運動家の金玉均を自宅に止宿させ、婦人運動家で著名な景山英子もたびたび吉野大滝の庄三郎宅を訪れている。

庄三郎は吉野大滝村で生涯を過ごし、1917(大正6)年7月に78歳で多くの人々に惜しまれながら死去した。

庄三郎の死後の大正10年、東京帝国大学の農学博士本多静六が中心になって広く募金を呼びかけ、吉野川に沿った鎧掛け岩に庄三郎の功績をたたえる「土倉翁造林頌徳記念(どくらおうぞうりんしょうとくきねん)」を刻み、故人の業績を称えた。(県政だより奈良より)

土倉庄三郎肖像(奈良県川上村大滝)

「土倉翁造林頌徳記念」磨崖碑(奈良県川上村大滝)

川上村HP

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