南埼玉郡河原井村(埼玉県菖蒲町)生まれ。
1866(慶応2年7月2日)-1952(昭和27)年1月29日 85歳
日本最初の林学博士。『日本の公園の父』とよばれる。
資産家として成功したことでも知られる。
裕福な農家の家に生まれるが、9歳のとき父親が急死すると生活は苦しくなった。
14歳で上京し、元岩槻藩塾長・島村泰の書生となり、17歳の時、東京王子の新設の山林学校に入学。
入学直後の第1学期の試験に落第し、失意のあまり自殺を図るが助かり、以後思い直して勉学に励み、東京帝大農科大学林学科(東大農学部)に進み、1890(明治23)年、優秀な成績で卒業した。
卒業時に上野彰義隊の隊長であった本多家の婿養子となり、本多家を継いだ。
その後ドイツ留学を経て、東京帝大農科大学助教授となり、32歳で、我が国最初の林学博士となり、1900(明治33)年、東京帝大教授に昇格した。
林学博士としての業績は多方面に及んでいるが、国立公園・国定公園などの自然公園の創設、東京水源林の開設、日比谷公園・大宮公園等の設計などに見られるように、造林学・造園学の確立に大きな足跡を残し、全国各地の公園を設計したことで有名となり『日本の公園の父』とも呼ばれた。静六が設計に関わった公園は北は北海道から南は鹿児島まで数百に及ぶ。
なかでも、日比谷公園は日本初の洋式公園として注目を集めた。
日比谷公園内のイチョウは公園整備の中で伐採されようとしたが、これに辞職覚悟で反対して移植したので、「首かけイチョウ」の逸話が残されている。
また、苦しい生活の中で学び、ようやく就職した静六は、報酬の4分の1を貯蓄する「4分の1貯蓄法」を思い立ち実行するなど、貯蓄に励み公共のために寄附する一方、自らは簡素な生活を送った。
1930(昭和5)年には、大滝村の森林4803町歩を県に寄贈して、ここから上がる収益を蓄積して生まれる果実をもって才能に優れながら経済的に恵まれぬ子弟に奨学金として補助することとし、本多静六博士育英基金として、今日まで埼玉県の教育水準の向上に大きな役割を果たしている。
本多静六生誕地記念園(埼玉県菖蒲町)
本多静六記念室(埼玉県菖蒲町・生涯学習文化センター内)
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