千葉県館山市生まれ。
1848(嘉永元)年5月10日-1924(大正13)年3月30日 77歳
資生堂創業者。
漢方医の祖父の影響を受け、17才のときに江戸に出て西洋医学を修める。幕府医学所、東京大病院を経て、海軍病院薬局長となる。翌年には官を辞して、京橋出雲町(現・銀座7丁目)に民間初の洋風調剤薬局資生堂を開業。医薬分業を唱え、独自の薬剤を製造・販売する。資生堂とは、易経の“至哉坤元 万物資生 乃順承天”から名付けられた。「地の徳はなんとすぐれているのだろう。万物はここから生まれている」という意味。
欧米先進国のように医薬分業体制を確立することと、粗悪な薬が横行している時代に、西洋医学に基づいた良質な医薬品を提供して人命を守ることを理想とした。
日本初の練り歯磨き・化粧水の開発にも成功し、大正6年には化粧品部を独立。新聞、雑誌への積極的な広告をうち、宣伝文句も目を引くものだった。また、女性の能力や戦力化の重要性に着目し、当時では珍しい多数の女性社員を活用した。
資生堂の基盤を強化する一方で、帝国生命保険の社長として保険思想の普及と事業拡大にも貢献した。また、海外で得た知識と経験に自らの美意識を加えて高品質の化粧品を次々と生み出し、日本発のチェーンストア制を確立して、資生堂文化を根付かせた。
福原有信記念碑 松が丘八幡神社境内(千葉県館山市竜岡地区)
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