愛知の偉人

石川丈山(いしかわ じょうざん)・愛知の偉人

三河国泉郷(愛知県安城市和泉町)生まれ。

1583(天正11)年-1672(寛文12年5月23日) 90歳

江戸時代初期の文人。
漢詩の代表的人物で、儒学・書道・茶道・庭園設計にも精通していたことから、「希代の隠士」といわれた。

徳川家(松平家)に仕える譜代武士の家に生まれた。
徳川家康の近侍となり、家康の信頼厚かったが、33歳の時、大阪夏の陣で、手柄を立てながら、軍令にそむいたことから、論功を受けることができず、それを契機に武士をやめて京都・妙心寺に入った。

そして35歳で、親友林羅山のすすめで、藤原惺窩門人になり儒学を学び、漢詩人としての第一歩をふみ出すことになる。

武勇にすぐれ儒学を修めた丈山のもとには、諸大名からも、いくつかの引き合いがあった。36歳のとき、紀州の浅野家に仕えるが、わずか数カ月で京都に帰る。
生活は苦しく、老母を伴いながらも、悠々自適な生活を送るが、丈山41歳の時、同郷の出身で交遊の厚かった京都所司代板倉重宗は、丈山の窮乏を憂い、紀伊から広島へ転封した浅野家に再び仕えるようにすすめた。
丈山は「わたしの素志に反しますが、老母に孝養を尽くすために」とこれを受入れた。友人には「母が天寿を全うすれば自分は必ず退官する」といい残し、母を伴って広島へ行く。

広島での丈山は賓客として手厚い待遇を受け、十分に母への孝養を尽くすことができ、53歳の時、母が亡くなると、丈山はかねてからの志望通り辞職を願い出るが、なかなか許されない。翌年、意を決して、病気療養のため有馬温泉へ行くと称して広島を去ってしまう。14年間に及んだ広島での生活でも、丈山は日夜学問や武術に励んだという。

京都に戻った丈山は、相国寺のそばに「睡竹堂」という居をかまえ、隠棲生活を始める。翌年、56歳になった丈山に所司代板倉重宗は、再び幕府に仕えるようにすすめるが、丈山は「母の没した後は、引退の志を遂げる」と辞退。
 
睡竹堂に住むこと4年、この間、終生の適地を求めていた丈山は、京都の北東、比叡山西麓の一乗寺村に、その地を見つけました。丈山はここを「凹凸か」と名付け、後に、「詩仙堂」とも呼ばれる。

丈山59歳の時、詩仙堂は落成。その後、没するまでの約30年間、ここで隠棲生活を送った。詩仙堂の庭園は、名庭として有名である。詩仙堂というのは、堂内の一室に中国の詩人三十六人の詩と小像をえがいて掲げたことによって名付けられたという。
ここで漢詩集『覆醤集』(ふしょうしゅう)が編せられる。

この中にある「富士山」の詩は特に有名である。

富士山
仙客来り遊ぶ雲外の嶺
神龍栖み老ゆ洞中の淵
雪は丸素の如く煙は柄の如し
白扇倒にかかる東海の天

「仙人が来て遊ぶといわけている 富士山は、白ぎぬのように雪をいただいて、ちょうど白い扇が逆さまにかかって いるようだ」。

丈山は書にもすぐれ、特に隷書は有名で、林羅山も「このような隷書の名手は本邦初めてである」と賞賛している。 

作庭家としても有名で、隠棲生活を送った詩仙堂の庭園のほか、京都東本願寺別邸の渉成園や、京都田辺の一休寺の庭園などが丈山の作といわれている。また、茶の道にも精通しており、煎茶の元祖であったともいわれています。

1672(寛文12)年5月23日、生涯独身を通して、90歳の生涯を詩仙堂で全うした。

石川丈山生誕地・丈山苑(愛知県安城市和泉町)

丈山文庫(安城市和泉町上ノ切1)

安城市歴史博物館(安城市安城町城堀30)

詩仙堂(京都市北山区一乗寺)

東本願寺別邸・渉成園(京都市下京区下数珠屋通間之町東入東玉水町)

一休寺(京都府京田辺市薪里ノ内102)

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