1865(慶応元)年-1908(明治41)年 44歳
東風平間切(沖縄県八重瀬町・旧東風平町)生まれ。
沖縄民権運動の父。他府県の人たちと同じ権利を、沖縄の人たちが勝ち取るために活動した社会運動家。
幼い頃から勉強がよくできたが、「百姓に学問はいらぬ」という父は学校に行かせてくれなかった。そのため、父に隠れて学校に行き、教室の外から授業を聞いていたという。母の説得でやっと学校に行けるようになる。17歳で沖縄師範学校に進学。留学生に選ばれ、上京。学習院で学んだ後、帝国農科大学に進み、近代農業を学んだ。その頃、自由民権運動が起こり、「長い間、虐げられてきた農民を救うために戦う」と訴える自由民権運動に感動した昇は、「大学に残り研究を続けるより、沖縄に帰り農民を救おう」と決意。
沖縄で初めての学士になり、沖縄県庁で働く。当時の沖縄県庁では、他府県出身者が多く、沖縄出身の昇の仕事ぶりに、他府県人に見下げられていた沖縄の人々を「農民の子でも偉くなれる」と勇気づけた。奈良原繁県知事になると、杣山払下げ問題で対立。県庁を退職し「沖縄倶楽部」を結成し、自治権や参政権獲得の必要性を訴えるが反対勢力の弾圧激しく、潰れてしまう。これまでの運動にすべてのお金を使いはたし、仕事を求め他県に向かう途中で倒れる。沖繩に帰った昇は、7年後の、1908(明治41)年44歳で病死。 沖縄県民が選挙権を獲得し、国会へ代表を送られるようになったのは1912(大正元)年、謝花没後4年、日本本土から遅れること32年後のことであった。
農民の立場で、沖縄の人々の権利を獲得するために戦った謝花昇の運動は、実を結ばなかったが、その勇気ある行動は多くの人々の心に残り、今も語り継がれている。
謝花昇墓所(沖縄県島尻郡八重瀬町字後原207-21)
関連書籍
この記事へのコメントはありません。