神奈川県小田原市生まれ。
1868(明治元)年12月29日-1894(明治27)年5月16日 26歳
評論家、詩人
15歳で自由民権運動に参加したが、大阪事件で疑問を持ち運動から離れる。キリスト教入信。『文学界』創刊。『厭世詩家と女性』は代表的評論。「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」の言は島崎藤村はじめ多くの若者を驚嘆させた。
また、『楚囚之詩』は透谷の最初の作品であるとともに日本近代詩の最初の作品として後世に評されている。理想と現実の間に行き詰まり自殺。
北村透谷生誕地碑(小田原市浜町3-11-14)
北村透谷碑(小田原市城内、水の公園内)
東京都中央区銀座・泰明小学校(透谷の学んだ学校)記念碑
北村透谷墓所 小田原市城山1丁目 高長寺
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