広島の偉人

森下博(もりした ひろし)・広島の偉人

広島県沼隈郡鞆町(広島県福山市)生まれ。

1869(明治2年11月3日)-1943(昭和18)年3月20日 74歳

森下仁丹創業者。

1869(明治2)年、沼隈郡鞆町(広島県福山市)の沼名前神社で宮司の三男として生まれる。しかし、物心のつく頃、父がたばこの製造販売など商売の道に転じることになる。

9歳になる頃には、博も府中市のたばこ商に見習奉公に出された。
こうした事情から、満足に学校に通うことができなかったが、奉公先近くの学校の先生に気に入られ、『学問ノススメ』を読むように勧められた。福沢諭吉の開明的な考え方は、その後の生き方に大きな影響を与えていくことになる。

1883(明治16)年、大志を抱いた森下は14歳で大阪へと向かった。
森下は洋品店に10年ほど奉公した後、1893(明治26)年に24歳の若さで独立し、薬種商「森下南陽堂」を創業する。

自ら筆をとり、事業の根本方針として次の3条を記した。
「原料の精選を生命とし、優良品の製造供給。
進みては、外貨の獲得を実現し
 広告による薫化益世を使命とする」

事業目標に堂々と「広告益世」と掲げるとは、当時として極めて大胆な発想だった。
何しろ、「広告を出すような会社は商品に自信がないに違いない」という考え方が一般的だった時代である。これも新聞広告の重要性を説いた福沢諭吉の主張にこたえての決断だ。森下の考えは、ドイツ宰相ビスマルクを商標に使った梅毒薬「毒滅」でまず確かな成果を収める。コピーは「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴(くばい)唯一の神楽」というものだった。

森下が広告戦略の中で最もこだわったのは商品のネーミングだ。
1905(明治38)年に発売された大衆薬「仁丹」の成功は、品質もさることながら、簡明でイメージ豊かなネーミングに寄るところも大きいだろう。

仁とは儒教最高の徳であり、丹には霊験あらたかな仙薬のイメージを持たせた。
トレードマークにも、数百回に及ぶ修正や改作が行われ、最終的に毒滅で使ったビスマルクをデフォルメし、当時大衆に人気のあった服を着せたものに決定した。

仁丹の宣伝広告には、新聞だけでなく、電柱や看板など、あらゆる空間が利用された。メディア・ミックスのはるかな先駆といえる。特に東京と大阪に建てられた大イルミネーションは大きな注目を集めた。仁丹は記録的なロングセラー・ブランドとなり、社名にも取り入れられる。

その後も森下は、古今東西の格言を使った「金言広告」、一般常識やエチケットなどを短文にまとめた「昭和の常識」、「日本一周宣伝飛行」など、ユニークな広告キャンペーンを次々に展開。

1938(昭和13)年にはあこがれの福沢諭吉に次いで、第二回「日本広告連盟賞」を受賞した。

「森下仁丹」の生産実績が医薬品業界のトップとなるのを見届けて、1943(昭和18)年に森下は永眠。悲報を聞いた鞆町では、盛大な町葬をもって故人を送ったという。

沼名前神社(広島県福山市鞆町後地1225)

森下仁丹歴史博物館

『仁丹』

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