福井の偉人

佐久間勉(さくま つとむ)・福井の偉人

福井県三方郡北前川村(旧三方町・現若狭町)に生まれる。

1879(明治12年)9月13日-1910年(明治43年)4月15日 31歳

海軍軍人。

1901年(明治34年)海軍兵学校を卒業、日露戦争には海軍少尉として従軍。日露戦争後、駆逐艦春風の艦長等を歴任し、海軍大尉に昇進。1910年(明治43年)4月15日、広島湾における演習に第6号潜水艇長として参加し、新湊沖で艇は沈没、部下13人とともに殉職した。

この沈没より前の他国での潜水艇の沈没事故では、わずかな光の潜望鏡のまわりに遺体が集まっていたという。しかし、6号潜水艇を引き上げると、乗組員はみな自分の部署を離れずに死に至っていたという。彼らは最後までおのれの職分を尽くしたのである。
最後の最後までわずかな光をたよりに遺書を書いた。「小官ノ不注意ヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス、誠ニ申訳無シ」で始まる彼の遺書には、沈没の経過や発生した現象、その対策まで細かく記録し、潜水艇の発展に力を尽くすことができるなら、自分たちは死んでも恨むことはないと記されていた。さらに最後まで実によく職分を尽くした部下を讃え、遺族の生活に困るものが出ないようご配慮をお願いします、と書かれていた。
この遺書は、「沈勇」と題されて、戦前の教科書に長く掲載された。この遺書は日本のみならず、世界的にも反響を呼び、世界中の潜水艇関係者や軍人の教訓として使われたという。また、阪神大震災のとき、日本人がパニックにならなかったのは、佐久間艇長の影響ではないかという海外からの評価もあったという。

『尋常小學修身書 巻六』(大正11年発行)
『 明治四十三年四月十五日、第六潜水艇は潜航の演習をするために山口縣新湊沖に出ました。午前十時、演習を始めると、間もなく艇に故障が出来て海水が浸入し、それがため艇はたちまち海底に沈みました。この時艇長佐久間勉は少しも騒がず、部下に命じて応急の手段を取らせ、出来るかぎり力を尽くしましたが、艇はどうしても浮揚(うきあが)りません。その上悪ガスがこもって、呼吸が困難になり、どうすることも出来ないやうになつたので、艇長はもうこれまでと最後の決心をしました。そこで、海面から水をとほして司令塔の小さな覗孔(のぞきあな)にはいつて来るかすかな光をたよりに、鉛筆で手帳に遺言を書きつけました。遺書には、第一に艇を沈め部下を死なせた罪を謝し、乗員一同死ぬまでよく職務を守ったことを述べ、又この異変のために潜水艇の発達の勢を挫くやうな事があつてはならぬと、特に沈没の原因や沈んでからの様子をくはしく記してあります。
次に部下の遺族が困らぬやうにして下さいと願ひ、上官・先輩・恩師の名を書連ねて告別の意を表し、最後に十二時四十分と書いてあります。艇の引揚げられた時には、艇長以下十四人の乗員が最後まで各受持の仕事につとめた様子がまだありありと見えていました。遺書はその時艇長の上衣の中から出たのです。
 格言 人事ヲ尽シテ天命ヲ待ツ。 』

佐久間艇長生誕地・墓所(若狭町前川神社)

佐久間艇長ゆかりの地(小浜市)

佐久間記念館(福井県三方上中郡若狭町北前川・若狭町教育委員会三方事務所内)

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