岐阜県恵那郡岩村町(岐阜県恵那市)生まれ。
1854(安政元年8月9日)-1936(昭和11)年10月8日 83歳
明治から大正にかけて活躍した教育家・歌人。
女子教育の先覚者。
本名は「平尾銘(ひらお せき)」。
5歳にして、俳句と漢詩を詠み、和歌を作るなど神童ぶりを発揮した。
新政府の招聘を受けて上京した祖父と父の後を追って上京。18歳であった。
19歳のとき、宮中の女官に登用され出仕する。
学識、和歌の才能で昭憲皇太后から寵愛され「歌子」の名を賜り、宮廷で和歌を教えるようになる。
26歳でその任を辞するまで8年間宮中にあったが、この間にフランス語を仏人セラゼンに学び、和漢洋学を加藤弘之、福羽美静等に学び、ますますその教養を深めるとともに、先輩税所敦子と厚い親交をむすんだ。
1879年(明治12年)に剣客の下田猛雄と結婚。宮中出仕を辞する。
3年後に夫が病に臥し、看病のかたわら、自宅で『桃夭(とうよう)女塾』を開講。
女子教育の第一歩を踏み出した。
この女塾には伊藤博文や井上毅の令嬢も通ったことから評判となり、上流家庭の子女が多く入塾したという。
1884年(明治17年)、夫猛雄が病死したが、塾の実績と皇后の推薦で、創設された「華族女学校」の教授に迎えられた。翌年には学監に就任。
1893年(明治26年)、女子教育の視察のため2年間欧米へ。
帰国後、歌子は「日本が一流の大国と成らん為には上流女子のみならず大衆女子教育こそ必要。」と「帝国婦人協会」を設立。協会は各種の事業を企画して実施したが、教育部門のうち、実践女学校と女子工芸学校の2つを開校させ注目された。
開校当時、わずか生徒40余名をもって、実践女子学園がスタートしたが、女流教育の第一人者下田歌子の名声をしたって年ごとに入学者が増え、発展の一路をたどった。
1906年(明治39年)、「華族女学校」は「学習院」に統合され、学習院女子部となった。
華族女学校創立以来20年余り、学監として努力を続けた歌子は直ちに学習院教授兼女子部長の要職についた。
しかし、翌年、後進のために道を譲って勇退し、実践女子学園の経営に専心することにした。園長として才腕をふるい、さらに学園を発展させた。
大正9年、66歳の時に、日本最大の婦人組織、愛国婦人会・五代目会長に就任した。
1936(昭和11)年10月8日、83年の生涯を閉じた。
実践女子学園では盛大な校葬をもって「学園の母」の死を悼んだ。
下田歌子勉学所(岐阜県恵那市)
下田歌子銅像(岐阜県恵那市)
下田歌子顕彰碑(岐阜県恵那市)
下田歌子墓所・護国寺(東京都文京区大塚5)
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