1828(文政11年9月9日)-1905(明治38)年1月31日 78歳
佐賀市鬼丸町生まれ。
佐賀藩士。明治時代の官僚・政治家。
『佐賀七賢人』のひとり。書家としても有名。
佐賀藩校・弘道館の教授、国学者・枝吉南濠の子に生まれる。
兄は国学者・枝吉神陽。のちに同藩の副島利忠の養子となる。
弘道館で学び、この間、江藤新平や大木喬任と交わる。
兄・枝吉神陽が中心となって結成した楠公義祭同盟にも加わる。
藩校致遠館の教授を勤めたあと、フルベッキに師事、英学を修める。
1867(慶応3)年には、大隈重信と脱藩し、勤王の志士として活動するが、捕らえられて佐賀に送還、謹慎処分を受ける。
明治維新後は、新政府の参与・制度取調局判事となり、福岡孝悌と『政体書』起草に携わる。
1869(明治2)年に参議、1871(明治4)年に外務卿となる。
「マリアルーズ号事件」を解決し、助けを求めた中国人を解放したことで「正義人道の人」と国際的に支持された。
1873(明治6)年10月、征韓論争に敗れ、下野し、板垣退助らと共に民撰議院設立建白書を提出。
1878(明治11)年には宮内省に出仕し、一等侍講となる。
その後、宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院議長を歴任。
1892(明治25)年には第一次松方正義内閣において内務大臣を務める。
副島種臣生誕地(佐賀市鬼丸町・佐賀県社会福祉会館前)
副島種臣墓所・高伝寺(佐賀市本庄町)
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