1606年(慶長11年)?―1669年(寛文9年10月23日)
アイヌの英雄。
北海道・シブチャリ(日高地方)のアイヌの首長。
1668年4月、シブチャリ(日高地方)の首長だったシャクシャインは、静内川の漁場を巡って対立していたハエ(現・門別町)の首長オニビシを殺害した。そこで、以前より松前藩に近いオニビシ勢はウタフを松前に送り、武器・兵糧の援助を求めるが、松前藩は、この争いがアイヌ間の争いに終らず、対和人の戦いへと発展することを以前より恐れていたため、援助を断った。ウタフは帰路病死するが、これが松前藩による毒殺と伝えられ、和人による交易の不平等や砂金採掘の圧迫を受けていた為に高まっていたアイヌの不満が爆発した。そして、シャクシャインを長とする大規模な戦いへと発展する。皮肉にも対立していたシブチャリとハエが一つにまとまった。
1669年6月、シャクシャインの呼びかけにこたえ、彼の指導によって松前藩へ蜂起を起こした。6月14日、シコツ(現・千歳市附近)で12人の和人を殺害したのを始めとして全道各地で300人以上の和人を虐殺しながら、シャクシャイン勢は7月28日には、函館近くの国縫(くんぬい、現・山越郡長万部町)まで攻め進んだが、8月4日には松前藩の鉄砲隊に破られ敗走。
10月23日、シャクシャインはピポク(現・新冠町高江)で和議の申し出に出かけて行った。宴会が開かれて酒がふるまわれたが、それは毒入り酒であり、シャクシャインはその場で殺害された。翌日には、シャクシャインのチャシ(砦)も焼き払われ戦いは終了。ピポクでのアイヌ側の死者は74人と記録されている。
この戦いに勝利をおさめた松前藩は、支配の地域を拡大するとともに、アイヌの人々をその支配下におさめてゆくことになる。
シャクシャイン像・記念館(新ひだか町静内真歌・旧静内町)
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