山口の偉人

高杉晋作(たかすぎ しんさく)・山口の偉人

長門国萩城下菊屋横丁(山口県萩市)生まれ。

1839(天保10年8月20日)-1867(慶応3年4月14日) 29歳

幕末の長州(萩)藩士。
久坂玄瑞とともに松門(吉田松陰門下)の双璧といわれる。
号は東行。

藩校明倫館に学び、19歳で吉田松陰の松下村塾に入門、英才を発輝して久坂玄瑞と共に松門の双璧と称された。

1858年、20歳で江戸遊学、昌平黌に入学。帰藩して明倫館の都講、1861(文久元)年、世子毛利定広の小姓役となり、以来藩政に関与。

1862(文久2)年藩命により幕府船・千歳丸に乗船し上海へ渡航。上海で見たものは、イギリス、フランスの植民地という悲惨な情景であった。帰国後、亡命して尊王攘夷運動を展開。松陰門下25名と品川の英国公使館の焼打ちを敢行。

1863(文久3)年、外国船の下関砲撃に際し、諸外国からの報復攻撃で圧倒的な武力差を見せ付けられた晋作は、新たに洋式軍備を取り入れ、奇兵隊を編制、総監となり馬関総奉行として下関防御の任に当たった。連合艦隊の諸外国との和議に際して、全権を持たされ交渉にあたり、賠償金・土地の租借など要求の一切を受けないという強気の姿勢で臨み、不利のない講和成立に成功。

第一次長州征伐に対しては、主戦論を説いたが、佐幕派にやぶれ、危機を察して九州福岡に脱走し、野村望東の平尾山荘に潜伏した。やがて下関に帰り、奇兵隊等諸隊の決起を促して挙兵。佐幕派藩政府を相手に勝利を収め、藩論を討幕に統一した。

第二次長州征伐には、海軍総督として幕府との開戦直後、小倉方面の戦闘を指揮した。同年10月肺結核を重くして退職、1867年4月討幕を見ずに下関で病死した。

松陰が高杉晋作に教えた死生観が司馬遼太郎著『世に棲む日々』に詳しい。

『 君は問う。男子の死ぬべき所はどこかと。小生も昨年の冬投獄されて以来、そのことを考え続けて来たが、今ついに、死の一字について発見するところがあった。死は好むものでもなく、また、憎むべきものでもない。世の中には、生きながら心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなす見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。つまり小生の見るところでは、人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ。 』

高杉晋作生誕地(萩市古萩町)

高杉晋作銅像・萩往還公園<道の駅>(萩市大字椿字鹿背ケ坂)

高杉晋作・ゆかりの地<下関>

高杉晋作墓所(萩市大字椿東)

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