静岡の偉人

山葉寅楠(やまは・とらくす)・和歌山/静岡の偉人

山葉寅楠(やまは・とらくす)・和歌山/静岡の偉人

和歌山市生まれ。浜松ゆかりの偉人。

1851(嘉永4)年4月20日-1916(大正5)年8月8日 65歳 
 
ヤマハ創業者。楽器王。

紀州徳川藩士の三男として生まれる。父親が藩の天文係をしていたことから、父の仕事を見たり、天体観測や土地測量に関する書籍や器具などをいじったりして育ち、機械への関心を深めた。

少年時代より剣術が強く、16歳で大和(奈良県)の小野派一刀流の師範の下で腕を磨いた。その後長崎で時計づくりを学び、さらに医療器械に興味を持つようになり、大阪に移って医療器械店に住み込み、熱心に勉強した。

1884(明治 17)年頃から医療器械の修理のため浜松の病院を訪れるようになる。しかし、医療器械の修理だけではとても暮らしていけず、時計の修理や病院長の車夫などの副業をして生計をささえた。

寅楠35歳の時、転機が訪れる。浜松尋常小学校(現浜松市立元城小学校)の校長から一台のオルガンの修理を依頼された。そのオルガンは外国製で、浜松ばかりか静岡県の名物に数えられ各地から見学にくるほどであった。それが突然鳴らなくなって、なんとか修理できないものかと校長が白羽の矢を立てたのが、医療器械の修理工として浜松にいた寅楠だった。

校長の依頼を受け修理に出向いた彼は、バネが二本壊れているだけだとつきとめ、この仕組みなら自分にもつくれそうだと思い、「このオルガンは45円もする。自分なら3円ぐらいでつくる自信がある。将来、オルガンは全国の小学校に設置される。そうなれば日本はつねに高額な外国製品を輸入しなくてはならない。オルガンの国産化は日本の国益につながるはずだ」と、オルガン作りを決意する。

すぐさま寅楠は、飾り職人の河合喜三郎に協力を求め試作を開始した。喜三郎は寅楠の熱意と腕にかけ、協力することにした。そして、ほとんど徹夜で研究を重ね、2ヵ月後にやっとオルガン第一号が完成した。さっそく、浜松の小学校、静岡の師範学校に試作品を持ち込むが評価は低く、納得のいかない二人は東京の音楽取調所(現東京芸術大学音楽部)で調べてみることにした。二人は天秤棒でオルガンをかついで東京へ向かった。しかし、そこでも音の調子が不正確で使用にたえない、と言われるが、伊沢修二学長のすすめで、約1ヵ月にわたり音楽理論を学んでいくことになった。

浜松に戻った二人は、周囲の反対を押し切って、オルガン作りを再びはじめた。河合の家に同居しながら、努力に努力を重ね、第二号のオルガンを完成させた。自信と不安が入り混じるなか、再び伊沢学長の審査を仰ぐため、オルガンを東京へ運んだ。「山葉さん、すばらしい!前回の欠点はことごとく取り除かれた。外国製に負けない見事なオルガンだ!これで全国の小学校へオルガンを置くことができますよ。」寅楠と河合は言葉もなく涙を流しました。これこそ、国産オルガンの誕生の瞬間であった。

寅楠は1888年(明治21)年、浜松市菅原町の廃寺の庫裏を仕事場とし、山葉風琴製造所の看板を掲げた。紆余曲折を経て、1897年(明治30)年、日本楽器製造株式会社を設立し、初代社長に就任した。

 寅楠は、ピアノの国産化にも挑戦した。単身アメリカに渡り、精力的にピアノ工場をまわり、アップライトピアノの生産を開始。
 1902年(明治35)年にはグランドピアノを完成させ、1904年(明治37)年にはセントルイス万国博覧会でピアノとオルガンに名誉大賞が贈られたのだ。

こうして、ピアノ生産量日本一を誇る浜松は、わが国を代表する楽器の町となり、世界的な音楽コンクールも開催され、音楽のまちとしても広く知られるようになった。浜松の楽器産業の種を播いた山葉寅楠は、1916年(大正5)年8月、研究と事業に明け暮れた64年の生涯を閉じた。そしてそのわずか2ヵ月後、苦楽を共にした河合喜三郎も、寅楠の後を追うようにこの世を去った。

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