熊本城下・内坪井町(熊本市坪井)生まれ。
1809(文化6年8月13日)-1869(明治2)年2月15日 61歳
幕末の政治家・思想家。
熊本藩士の二男として生まれる。幼少時から藩校時習館で学ぶ。実践を重んずる李退渓・大塚退野の朱子学、さらに江戸に遊学し、藤田東湖らと交わり水戸学からも影響を受ける。
1846(弘化3)年、私塾「小楠堂」を開設、塾生20余人が寄宿。徳富一敬など豪農層の入門者が多かった。同志との研究会は実学党と呼ばれた。
1851(嘉永4)年、諸国遊歴に出て各藩の地勢や財政事情を視察し、また各地に人物を訪ね開国論をとるようになる。
1858年(安政5)年、越前藩主松平慶永に招かれて、その理想の実現に努力し、同藩の由利公正と協力し、殖産貿易事業を推進。
1862(文久2)年、松平慶永が幕府政事総裁に就くと、小楠が構想した「国是七条」により幕政改革を行わんとし,慶永を助けて努力、公武合体から雄藩連合へと進めようとしたが藩内の対立で1863(文久3)年、失脚した。
熊本に帰国したが、藩は前年江戸で刺客に教われた際、敵に立ち向かわず、盟友を残して逃げたのは武士に有るまじき振舞として、士席(武士の身分)を剥奪された。
1868(明治元)年、岩倉具視の懇望により藩の反対にも関わらず、士席を回復され新政府の参与となり明治政府を支えた。翌年京都で暗殺される。
小楠が構想した、「国是七条」
大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ(将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る)
諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)
諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国元に帰す)
外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ(優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)
大いに言路を開き、天下公共の政をなせ(多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)
海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり軍の力を強くする)
相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)
歴史の教科書で触れられることも少ない横井小楠だが、閉鎖的な時代の中にあって、いちはやく現代にも通じる普遍の思想を持っていた、大偉人といえるであろう。だからこそ、士席剥奪の身でありながら、明治政府に招かれ、新政府を支えることになったのである。もっと見直されて当然の人物である。
勝海舟の言葉。「おれは今までに天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南洲だ」。
横井小楠記念館(熊本市沼山津)小楠の旧居「四時軒」の敷地内にある。
横井小楠をめぐる維新群像・高橋公園(熊本市千葉城町)
横井小楠殉節地(京都市中京区寺町丸太町下る東側)
肥後横井小楠之神霊石碑・京都護国神社(京都市東山区)
横井小楠墓所・南禅寺天授庵(京都市東山区)
関連書籍
この記事へのコメントはありません。