陸奥国須賀川(福島県須賀川市)生まれ。
寛延元年(1748)-文政5年(1822)5月7日
江戸時代後期の銅版画家。「わが国初の銅版画家」
本名は永田善吉で、略して田善と称した。
画僧月僊(げっせん)について画を学んだが、兄の死により家業である染物業を継いだ。白河藩藩主であった松平定信に画才を見出され、自分より若い谷文晁の弟子となり洋風画を学んだ。ついで、定信から銅板術の研究を命じられ、司馬江漢の弟子になったといわれているが、破門、定信周辺の蘭学者の協力を得て銅版画(エッチング)や油絵を習得。
文化年間(1804~1818)を中心に大小多数の江戸名所風景図を世に出し、銅板画家として重きをなした。
また医師宇田川玄真の「医範提綱」解剖図を銅版画により作成した。
代表作に「両国図」「浅間山図」など。
須賀川市立博物館所蔵の「亜欧堂田善コレクション」82点は、県重要文化財に指定されている。
亜欧堂田善生誕地・胸像(福島県須賀川市諏訪町・保健センター前)
亜欧堂田善著作集(福島県教育委員会)
須賀川市立博物館(福島県須賀川市池上町6・翠ケ丘公園内)
亜欧堂田善墓所(長禄寺・福島県須賀川市北町)
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