東京府第二大区一小区幸橋御門内(千代田区内幸町)生まれ。
1872年(明治5年3月25日) -1896(明治29)年11月23日 24歳
小説家、作家、歌人。
近代以降では最初の職業女流作家。
【一葉の生涯】
1872(明治5)年
陰暦3月25日朝8時、樋口一葉 <本名「奈津」(なつ)>は、父・則義、母・多喜の次女として、東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の武家屋敷で生まれた。
※父則義は、江戸南町奉行支配下の同心であったが、維新後の当時は、東京府庁に勤め、生活も当時では中流ぐらいの家庭に育った。
1883(明治16)年:11歳
下谷区上野元黒門町にあった私立青海(せいかい)学校小学高等科第四級を主席で修了後退学。(入学は明治14年9歳の時)
早熟で向学心の強い奈津は5歳の頃から本郷学校に入るが、幼いためすぐ退学となり、吉川寅吉が経営する吉川学校に編入した。 その後、下谷区に転居してからは、しばらく東京師範学校付属小学校に通ったが、青海学校に転校した。
1886(明治19)年:14歳
小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ弟子入りして、ここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだ。
1887(明治20)年:15歳
長兄・泉太郎、死去。
1889(明治22)年:17歳
父・則義、死去。奈津達は、一時は次兄虎之助の借家に転居するものの、母多喜と虎之助の対立は絶えなかった。虎之助は、奈津が6歳の時に分籍になっていたこともあり、彼女が家督相続人となる。
1890(明治23)年:18歳
9月末から、本郷区菊坂町七十番地を借り、母多喜と妹くにを住まわせる。自分は中嶋歌子の家に住み込みながら、母や妹とともに針仕事・洗張・蝉表造(せみおもてづくり)などの内職をして生活した。
1891(明治24)年:19歳
東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水(なからいとうすい)について、初めて小説の手ほどきを受ける。※この頃から、筆名「一葉」が使われはじめた。
1892(明治25)年:20歳
桃水の主宰した雑誌『武蔵野』に小説「闇桜」がのり、次いで萩の舎の先輩であった田辺花圃(後の三宅雪嶺夫人)の仲介で、雑誌『都の花』に「うもれ木」が連載され、これが一葉の出世作となった。
1893(明治26)年:21歳
『文學界』第三号に「雪の日」が掲載される。『文學界』によって星野天知(てんち)や平田禿木(とくぼく)、後に馬場孤蝶(こちょう)や戸川秋骨(しゅうこつ)、上田敏、島崎藤村、川上眉山(びざん)を知った。この年の7月には、生活苦を打開しようと吉原遊郭の近く下谷龍泉寺町三百六十八番地へ移り、荒物雑貨、おもちゃ、菓子などを売る小店を始めた。
1894(明治27)年:22歳
約9ヵ月で龍泉寺町の店を閉じ、本郷区丸山福山町四番地へ転居。
1895(明治28)年:23歳
1月から約一年間にわたり龍泉寺町時代の生活体験から取材した「たけくらべ」を『文學界』に連載し、この間に「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などを発表した。
※一葉は生涯で、このほか四千首に近い和歌、15歳から晩年までの日記を残した。この日記は「たけくらべ」「にごりえ」などの作品と並んで、近代文学の傑作といわれている。
1896(明治29)年:24歳
11月23日午前、肺結核のため24年の短い生涯を閉じた。
(一葉記念館HPより)
「 道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士私利をこれ事として、国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。
かひなき女子の何事を思ひ立たりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて百世の憂いを念とせざるものならず。
かすか成といへども人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も男も女も何のけぢめか有るべき。
笑ふものは笑へ。そしるものはそしれ。わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこころざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のえじきに成らんを期す。われつとむるといへども賞をまたず、労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。
いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるるべからず。去就は風の前の塵にひとし。心をいたむる事かはと、此あきなひのみをとぢんとす。 」
樋口一葉生誕地・内幸町ホール(千代田区内幸町1―5―1)
一葉記念館
現仮設展示場(台東区西浅草3-25-16,台東区生涯学習センター内)H18.8.31まで
H18.9.1~10.31 臨時休業。
H18.11.1より新記念館(東京都台東区竜泉3-18-4)オープン。
樋口一葉墓所・築地本願寺和田堀廟所(杉並区永福1-8-1)
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