鳥取県久米郡倉吉河原町(鳥取県倉吉市)生まれ。
明治7年(1874)3月12日~昭和42年(1967)6月25日 94歳
ビール業のパイオニア、麒麟麦酒創業者。
鳥取県尋常中学校に入学するが、17歳の時、商人になることを志し、単身上京し東京高等商業学校(現一橋大学)を受験する。田舎育ちの長蔵は高等商業学校の入学試験の難問に全く歯が立たず不合格。1年間の浪人の末、翌年に合格。
明治30年(1877)東京高等商業学校卒業。
卒業後、倉吉に戻り、兄の製糸業を手伝うが、半年後の明治31年(1878)1月には、再び上京して磯野商会に入社。
明治35年(1902)、磯野計(明治屋・磯野商会創業者)の遺児菊と結婚、入籍し、磯野姓になる。長蔵は明治屋の副社長に就任し、社長の米井源次郎とともに明治屋の基礎を築く。大正9年(1919)、米井が没すと、長蔵は明治屋の社長に就任し、生涯明治屋の経営に携わった。
また、長蔵は、明治40年(1907)、麒麟麦酒株式会社の設立に参加して、専務に就任。販売面を一手に担い、麒麟麦酒の発展に尽くす。
昭和に入り、販売競争が激化すると、営業部長として腕を振るった。
麒麟麦酒の経営理念は、「品質本位・堅実経営」だが、これは長蔵に理念であった。当時最大手の大日本麦酒株式会社との合併話も断り、理念に固辞した。
昭和17年(1942)麒麟麦酒の社長にも就任、業界第一位の地位を獲得した。
明治屋、キリンビールの経営によって莫大な富を得るが、長蔵はその富で私利私腹を肥やすことを決してしなかった。
昭和29年(1954)、郷土の鳥取県倉吉市に(財)三松奨学育英会を創設、
また、昭和37年(1962)には巨額の私財を寄附し母校一橋大学に磯野研究館を建設。
母校一橋大学の磯野記念館には長蔵の胸像が飾られている。
郷土の倉吉では、ビールの大衆化や日本経済の発展に寄与した業績と、郷土に対する多年の貢献を讃え、昭和53年、長蔵を市政初の名誉市民に選んでいる。
磯野長蔵銅像(東京都国立市・一橋大学磯野研究館)
磯野長蔵墓所は不明。
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