長府藩長府町印内(山口県下関市長府町)生まれ。
1828(文政11年1月13日)-1888(明治21)年11月5日 61歳
明治期の日本画家。
橋本雅邦とともに『狩野雅信門下の双璧』『二神足(にこうそく)』と称された。
日本画の名匠・『五名匠』のひとり。
長府藩毛利家の御用絵師・狩野晴皐(かのう せいこう)の子として生まれる。
幼少から絵の天分を発揮し、19歳のときに江戸にのぼり、木挽町狩野家勝川院雅信について十年間絵の修行をした。多くの門弟たちの中でも彼の技術は群をぬき、塾頭となり橋本雅邦とならんで雅信門下の双璧と称された。
しかし、狩野派の筆法に満足せず、師とも対立して破門されかかったこともある。
幕末の動乱期には、故郷の長府に帰って画業につくが、一時は描くことを中止し、武具の制作に従事したこともあった。明治維新後も、画業のかたわら養蚕や測量図の仕上げなどをして生活を支えたが、貧苦はつのるばかりだった。
明治12年、橋本雅邦の紹介で、「犬追物図」制作のため島津家に雇われやっと生活の安定を見、さらに1884(明治17)年、57歳の時、第二回内国絵画共進会の出品作『桜下勇駒図』でフェノロサ、岡倉天心に認められ、ようやくその労苦が報われる。
以後、日本画革新運動に参加し、美術学校の創設に努力、1888(明治21)年創設の東京美術学校の教授に決まっていたが、開校を目前に病死。
代表作は、「悲母観音図」「不動明王図「仁王捉鬼図」「八臂弁財天図」など。
「悲母観音図」は三年間精魂を打ち込んで描いた作品で、当時としては明治以降唯一の国宝指定を受けた。
狩野芳崖旧宅跡地(下関市長府印内町)
狩野芳崖銅像・覚苑寺(下関市長府安養寺町3-9)
狩野芳崖銅像・下関市立美術館(下関市長府黒門東町1-1)
狩野芳崖墓所・長安寺(東京都台東区谷中)
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