内藤繁子(ないとう・しげこ)/充眞院(じゅうしんいん)・宮崎の偉人
江戸生まれ。
1800(寛政12)年-1880(明治13)年 81歳
延岡藩第6代藩主・内藤政順(まさより)夫人。
源氏物語注釈の才女。彦根藩第13代藩主・井伊直中の三女。
井伊直弼の異母姉。子宝に恵まれず、井伊直弼の弟政義を養子とする。
『源氏物語』54帖すべてに評釈を加えるなど、文学に造詣が深く、文章にも通じていた。
35歳で夫を亡くし、江戸の上屋敷で暮らしていたが、文久3年(1863)延岡へ帰国し、その二年後、延岡から江戸へ旅立つ。
81歳で亡くなるまで、155冊の著作を残した。
延岡市内藤記念館の1室にブロンズの女人像(高さ60センチ)がある。延岡藩14代藩主、内藤政順夫人繁子(後に充眞院)である。
彦根藩主井伊直中の第9子で名は充姫、内藤家に嫁ぎ繁子と名乗るが、夫の政傾が37歳で逝去後、髪をおろし充眞院と称した。35歳であった。文学、絵画の才に優れ、女性の作品として高く評価される旅日記2編がある。
江戸~延岡往復の日記で『五十三次ねむりの合の手』江戸-延岡。『海陸返り咲ことばの手拍子』が延岡-江戸。どちらも自筆のスケッチ入りで、神官、かご、宿場の娘、川渡し、港のにぎわいなど、さらに荒井(新居)の関所の、「女人改め」の描写は、人見女の服装を克明に記している。元治から慶応へ元号が変わった道中での時代の推移がよみとれる。政変の続く中で、参勤交代制度の変革に伴う江戸と領地を往復の旅日記である。将軍家茂の先発隊と遭遇し、また公家衆との行き合いを避けるなど、崩壊してゆく権威を譜代大名家の女65歳の視座がとらえる。
1860(万延元)年3月の雪を血で染めた桜田門外の変で、暗殺された大老井伊直弼(なおすけ)は充眞院の弟であった。充眞院は1863(文久3)年延岡へ。2年後再び江戸へ向かう。
内藤家は代々風雅な藩主が多く、充眞院は風虎(義泰)の家集を発見、修復し後書きを自分で書く。品位、玲瀧(れいろう)と匂(にお)う名文である。
源氏物語に通暁し54帖の注釈。また、美術の造けいも深く金比羅参拝の折、大書院での観照は卓抜である。子どもの無い充眞院は姪の光姫を旅に同行、厳しいしつけと母心旅情が供の者へのいたわりとともに光っている。天賦ともいえる才華の女人は、東京青山墓地に眠っている。(宮崎県HPより)
内藤記念館(宮崎県延岡市天神小路255-1)
内藤充眞院像がある日向国延岡藩内藤充真院の好奇心 : 色々見聞したる事を笑ひに書』を素材として
内藤政順墓所(光明寺・神奈川県鎌倉市材木座6-17-19)
延岡藩内藤家の墓所。墓碑がある。内藤充眞院墓所(青山霊園・東京都港区南青山)
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