小平浪平(おだいら・なみへい)・栃木/茨城の偉人
栃木県下都賀郡(栃木県栃木市都賀町)生まれ。
1874(明治7)年1月15日-1951(昭和26)年10月5日 78歳
日立製作所の創業者
東京帝国大学電気工学科を卒業後、電気技師として藤田組や東京電灯で働くが、33歳のとき、久原房之助が設立した久原鉱業所日立銅山に招かれて入社した。
日本を近代国家にし、自立するために、外国の機器や技術に頼らないで、国産の自主技術開発を行うという大きな志をもっていた。久原鉱業所は日立銅山を採掘する鉱山会社だが、電化による近代鉱山経営を目指していた。
電気機械の輸入品に頼っていたので、故障時の不便を解消するため自前の修理工場を設けた。40坪の掘立小屋に工員5人という規模であった。
電気機械の国産化の必要を痛感していた浪平は、工作課長として技術指導にあたる一方で、国産初の電動機(モーター)をこの小屋で開発した。
この成果もあって、浪平は国産を前提とした電気機械製作事業を企画、翌年には房之助の許しを得て日立町芝内(現日立市)に工場を移した。外部への製品供給も行うようになった同工場は、久原鉱業株式会社日立製作所となり(1912年)、株式会社日立製作所として独立(1920年)。浪平は初代社長となった。
人材の育成に情熱を燃やし、日本の工場ではじめて原価計算を導入し、部品材料の自給自足にこだわり、製品の信頼確保に情熱を傾け、主要工場の火災という逆境にもめげず従業員を励まし続け、日本を代表する総合電機メーカーに発展させた偉人である。
昭和26年、公職追放解除となり、日立工場を訪れた際には、『以和為貴』(和をもって貴しと為す)と染め抜いた手ぬぐいを従業員に配ったという。
大都市と農村の明暗 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)
16歳で父を失った小平浪平は、電気工学を進路に選び、それによってわが家の再興と日本の工業の振興をめざすことにした。
小坂鉱山、広島水力電気、東京電灯を経て日立鉱山に入ると「日本で使う機械は日本で作る」をモットーに機械修理工場を製作工場に転換させ、のちに鉱山から独立して株式会社日立製作所として、その経営にあたる。
そして終生工業機械の国産化のために挺身して、同製作所をトップレベルの会社に育て上げた。
小平浪平生家(栃木県栃木市都賀町)
日立製作所日立事業所・小平記念館(茨城県日立市)
小平記念館の碑文
「日本人を深く愛し 日本人の力量をたかく評価し 外国の資本を入れず 日本人の技術によって 日立今日の大をなせし 小平浪平翁を記念するために」小平浪平墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中1)
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