大江卓(おおえ・たく)・高知の偉人
土佐国幡多郡柏島(高知県幡多郡大月町)生まれ。
弘化4年(1847)9月21日-大正10年(1921)9月12日
政治家、実業家。
幼名は秀馬。妻は後藤象二郎次女。
長崎、京都で土佐陸援隊の倒幕運動に参加。
明治5年、神奈川県権令となり、マリア・ルス号事件を調査。
マリア・ルス号事件
明治5年6月5日、南米ペルーのマリア・ルーズ号という汽船が、横浜に入港してきた。
海上で暴風にあい、鉛を修理するための入港で、船員はペルー人であるが、乗客はすべて清国人であった。
ところが、投錨後3日目の6月7日の深夜、やせ衰えた清国人が海中にとびこんで逃亡して、やっと、英国軍艦に泳ぎついた。
この男によって容易ならざる大秘密が暴露したのである。
「マリア・ルーズ号には自分と同じような清国人が二百三十余人乗っている。最初我々はペルー人のいうところに従って、労働移民として乗船したのであるが、船中における彼等の態度は、乗船前の甘言とはまるきり異り、虐待に虐待を加えて来た。幸い横浜に入港していることを知り、生死を運にまかせて一身の救助を求めたのであるが、船中に居る不幸な同胞を何とか救っていただきたい。」というのであった。
この報はやがて大江にも達した。
外務卿副島種臣の指導のもとに大江は徹底的に調査することになり、大江自から特設裁判所の裁判長となって、この事件を裁判することになった。
国内でも、我国と関係のない事件に深入りして対外的に事をかまえるのは得策でないとの意見もあり、更に独、仏、伊、蘭の諸国からも強い干渉があった。
大江は人道上の重大問題だとして、これらの圧力をはねかえし、裁判を続行した結果、ついに清国人232名を解放し、無事に清国に送りとどけたのである。
(宿毛歴史館・宿毛人物史)
西南戦争中に林有造らの挙兵計画に関与した容疑で入獄。
出獄後は大同団結運動に参加し、第一回総選挙で衆議院議員に当選。
第一議会では予算委員長として民党と政府の妥協に努力した。
第二回総選挙での落選後は実業に専念した。
宿毛人物史(宿毛歴史館ウェブサイト)
大江卓墓所(青山霊園・東京都港区南青山2)
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