香川県坂出市生まれ。
1888年(明治21)年1月1日-1967(昭和42)年2月7日 80歳
官僚・政治家、大蔵大臣・防衛庁長官
戦後日本の賠償交渉をまとめた偉人。
旧制丸亀中学卒、旧制一高卒、東京帝大法科卒後、大蔵省入省。世界経済に詳しく、1923(大正12)年に関東大震災が起こると、その復興資金を外国から借りるためアメリカやイギリスに出向くなど、事あるごとに海外からの資金集めに努力した。戦後は日本の賠償責任と共に、戦前の外債(外国への借金)の支払い問題にも直面していたが、借金の返済をできず、その上、戦災復興のためにまた外債が必要という苦しい状況にあった。寿一は、失った国際信用を取り返すことが何よりも大切だと考え、元金も利子も一切まけてもらわず、ただ支払い期間を10年間延ばしてもらうことにした。こうした態度は、日本の信頼回復に大いにつながった。
寿一が主席全権となったインドネシアやフィリピンとの賠償交渉は、多難を極めた。国土が戦場になった両国からは、当然ながら巨額の賠償金要求があったが、支払能力が限られていた日本は、お金での支払いだけでなく、経済開発に協力したり、沈没した船を引き揚げるなどの役務の提供などで賠償させてほしいと粘り強く交渉した。交渉は4年にも及んだが、相手国の話をよく聞くと同時に、日本の状況も十分説明し、誠心誠意交渉に当たった結果、賠償協定の調印に至った。
敗戦で疲弊した中での損害賠償交渉に果敢に取り組んだ津島寿一。もし寿一の交渉がうまくいかなかったら、わが国の戦後復興も違ったものになったかもしれない。外国との信頼関係を大切にする寿一の交渉が相手国の理解を生み、交渉をまとめる原動力となりました。
その後、参議院議員としても活躍し、1967年(昭和42)年、亡くなった。坂出市名誉市民。(みんなの県政かがわより)
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