愛知の偉人

渡辺崋山(わたなべ かざん)・愛知の偉人

三河国田原藩江戸藩邸生まれ。
愛知県田原市の偉人。

1793(寛政5)年10月20日-1841(天保12)年11月23日 49歳

 田原藩士の父・定通の長男として生まれた。父は、留守居添役仮取次で15人扶持の給料をもらっていた。8才で若君のお伽役となった。財政難の田原藩は家臣の減給を行っており、11名の家族で貧しい渡辺家は幼い弟妹たちを奉公に出し、崋山も貧しさを救うため、絵を描く内職をしながら学問に励みました。
 12才の崋山は、徂徠学派の儒学者である鷹見星皐に学び、後に佐藤一斎、松崎慊堂に学び、幕府の昌平校にも学籍を置きました。37才の時には、三宅氏の家譜編集を藩主より命ぜられ、続いて江戸では藩邸学問所の総世話役となり、儒者伊藤鳳山を招いて藩校成章館の興隆を計りました。晩年には貧しい中で集めた書籍などを、後輩のため藩へ献上しました。
 崋山は、白川芝山、金子金陵、谷文晁らに絵を学びました。初め、崋山の絵は家計を助けるものでした。しかし、天性の才能と努力によって26才頃には画家として有名になりました。崋山の絵には、鋭い線と品格があり、また、写生を主としていますが、外形だけでなく、内部の性格をあらわします。西洋画の立体、質、遠近などの面による構成を、線を主体とした東洋画に取り入れた功績は非常に大きく、その作品には、国宝「鷹見泉石像」をはじめ、多くの重要文化財、重要美術品が残っています。
 天保3年(1832)崋山は家老に就任。そして、紀州藩破船流木掠取事件、幕命の新田干拓計画、助郷免除などの難かしい事件を解決した。また、田原藩は救民のための義倉「報民倉」を建設し、天保7、8年の大飢饉では、一人の餓死流亡者も出しませんでした。このため、翌9年幕府は全国で唯一田原藩を表彰した。これらは、崋山の指導による功績だった。この頃、黒船が近海に接近するため、崋山は外国船の旗印を描いて沿海の村々の庄屋に配り、海岸の防備や見張りに当たらせました。

 崋山は32才頃から外国事情に関心をもち、蘭学や兵学の研究を始めました。三宅友信に蘭学をすすめ、高野長英、小関三英、鈴木春山らを雇い翻訳をさせ、また鷹見泉石、幡崎鼎、江川坦庵ら洋学者とも交わり、来航したオランダ甲比丹から世界の状勢を知り、当時外国事情に精通する第一人者となりました。西洋諸国が強大な力をもって東洋に侵入するのに対し、幕府の外国船打払令や鎖国が危険なことを主張し、開国、交易をするよう強調しました。また、崋山の遺志は、藩士村上定平、萱生郁蔵らによって、明治維新まで受け継がれ、田原藩は軍備の近代化が最も進んだ藩となりました。
 蘭学の進出は儒学の信奉者が多い幕府役人にとって目の敵であり、目付鳥居耀蔵もその一人で、江戸湾測量で江川坦庵に敗れて以来、蘭学者の弾圧を狙っていました。幕府は、鳥居の密偵によって崋山らの無人島渡航計画の噂を知り、天保10年5月、崋山、高野長英ら10数名を捕らえました。渡航の罪は晴れたものの、崋山は机底から見つけられた「慎機論」、長英は「戊戌夢物語」が幕政批判という重罪となり、崋山は、在所田原へ蟄居、長英は永牢となりました。

 蟄居中の崋山一家の生活を助けるため、門人福田半香らは崋山の絵を売る義会を始めました。崋山は作画に専念し、「于公高門図」「千山万水図」「月下鳴機図」「虫魚帖」「黄粱一炊図」など次々と名作を描きました。しかし、その活動により、天保12年(1841)夏の頃から「罪人身を慎まず」と悪評が起こり、藩主に災いの及ぶ事をおそれた崋山は死を決意しました。「不忠不孝渡邉登」と大書し、長男立へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して切腹し、49年の多彩な生涯を終えました。(田原市博物館HPより)

田原市博物館 

崋山神社(愛知県田原市)

渡辺崋山幽居跡・銅像(田原市・池ノ原公園)

山形美術館『溪澗野雉図』収蔵(山形県山形市大手町1-63)

渡辺崋山墓所(田原市・城宝寺)

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