越後長岡藩(新潟県長岡市)生まれ。
文久3年(1864)12月5日-昭和2年(1927)6月 63歳
乾電池の発明者。「乾電池王」と称される。
長岡藩士の子として生まれる。6歳で父と死別し、13歳で東京の時計店に丁稚奉公に出たが、病気のため帰郷。時計店の修理工として奉公しながら独学で機械の研究を続けた。
再び東京にでて職工として働くかたわら、電気時計の研究を始める。様々な試行錯誤を繰り返した後末1918年に、安全で携帯に便利なマンガン乾電池の発明に成功した。
乾電池を発売した当初は、先蔵の乾電池は全く売れず、生活は貧窮を極めた。さらに、先蔵の乾電池のすごさを知った外国人が模造して日本市場を席巻してしまった。
しかし、日清戦争中に、屋井乾電池が極寒の中国大陸でも通信用電源として立派に作動していると新聞で報道されると、たちまち有名となり売上を伸ばした、その後さらに改良し、 屋井乾電池を設立し、乾電池の本格量産にとりかかり、日本一の生産量を誇った。
筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確立し、「乾電池王」とまで呼ばれた。
昭和2年(1927)死去。享年63。 息子に引き継がれた屋井乾電池も第二次世界大戦後忽然と姿を消してしまい、その名前と業績を知るものは少ない。
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