近江国高島(滋賀県高島市)生まれ。
承応元年(1652)8月13日-正徳元年(1712)12月1日 60歳
江戸時代の儒学者・思想家。「崎門三傑」の一人。
山崎闇斎の門人で、闇斎門下の俊英として、闇斎の純正朱子学の学風を継承し、佐藤直方、三宅尚斎とともに「崎門三傑」と称せられた。
師の闇斎が神道を重んじるに及び師門を離れたが、闇斎の死後は、神道にも興味を示すようになり、香を焚いて罪を謝し、闇斎の所説を継述するに至った。
ひととなりは厳毅、つねに長刀を帯し、脛巾(はばき)に「赤心報国」の4字を篆鐫(てんせん)(篆字を彫り刻むこと)したという。
また楠木正成(くすのきまさしげ)を敬い、望楠軒(ぼうなんけん)とも号した。
主著『靖献遺言(せいけんいげん)』は、1684年から1687年にかけて書かれた。
屈原、諸葛孔明、陶潜、顔真卿、文天祥、謝枋得、劉因及び方孝孺の8名の評伝の形を取っており、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。
生涯任官せず門人の教育に尽力した。
門人に三宅観瀾(かんらん)、若林強斎(きょうさい)らがある。
正徳元年(1712)12月1日に没した。
浅見絅斎邸址(京都市中京区錦小路通高倉西入南側)
浅見絅斎墓所(旧延年寺墓地・京都市東山区東大路五条上ル五条橋東6)
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