熊本県八代郡野津村(現氷川町・旧竜北町)生まれ。
1866(慶応2)年9月4日-1945(昭和20)年2月20日 79歳
電通創業者
幼名を喜一。学令に達すると同時に、寺子屋に通い始め、野津小学校、ついで漢字塾「菁莪堂」から熊本に出て共立学舎、陸軍士官学校の予備門育雄校、さらに東京に出て予備門有斐校に学んだ。明治22年(1889)、25歳の時に新聞記者になった。この経験から広告事業と通信事業の兼営を思いつき、明治34年(1901)7月1日、日本広告株式会社を創立した。さらに4ヶ月後には電報通信社をスタートさせた。両社の経営は日露戦争の勝利と共に軌道に乗った。
明治39年(1906)12月、電報通信社を改組し、株式会社日本電報通信社を設立。翌45年5月、米国の大通信社UPと通信交換の契約を結んだ。明治40年(1907)8月、日本電報通信社と日本広告株式会社を合併し、新しい株式会社日本電報通信社として発足した。しかし、昭和11年(1936)、通信部が政府の方針によって分離され、電通は広告専門会社として再発足した。
以後、電通は総合広告会社として成長を遂げる。広告業界の社会的地位の向上を高めた偉人といえるだろう。
光永星郎墓所(熊本県氷川町)
関連書籍
この記事へのコメントはありません。