第十代佐賀藩主。
文化11年(1814)12月7日-明治4年(1871)1月18日 58歳
「佐賀七賢人」の一人、幕末の名君、「肥前の妖怪」。
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)
父は斉直(なりなお)。号は閑叟(かんそう)。
天保元年(1830)家督相続するが、前代までの放漫財政によって藩財政は破綻寸前であった。古賀穀堂(こがこくどう)らの改革派を側近に置き、藩校弘道館出身の人材を登用して人事を刷新、天保の改革を行った。1837年からの農村支配機構の改革、小作料の10年間猶予による本百姓体制の再編、陶器・櫨蝋・石炭などの特産物奨励などである。
佐賀藩は長崎警備の任にあったので、直正自身もしばしば長崎に赴き、外国警備の重要性、西洋技術の優秀さを認めていたため早くから洋式軍制改革を実施した。伊王島・神島に洋式砲台を設置、また洋式大砲鋳造のため大銃製造方を設け国産初の反射炉を建設、西洋艦船の製造・購入にも努めた。西洋理化学研究所である精錬方をおく。
また佐野常民ら藩士を長崎海軍伝習所に派遣、西洋船舶を輸入し強大な海軍力を育成した。
さらに種痘を世子直大(なおひろ)に施し西洋医学の摂取に努めた。
藩政改革の成功の反面、幕末の幕府・朝廷をめぐる政争への介入には一貫して慎重であり、万延元年(1860)の幕府の召命を固辞し、文久元年(1861)に隠退し、家督を直大に譲ったが藩政を主導し、戊辰戦争では育成した軍事力が官軍の勝利をもたらし、明治新政府へ大隈重信、江藤新平ら藩の実力者を送り込み佐賀藩の地位を高めた。自らも議定に就き、軍防事務局輔、ついで制度事務局輔を兼任した。
徴古館(佐賀市松原2-5-22)
藩校弘道館跡(徴古館の西側駐車場内)
佐嘉神社(佐賀市松原2-10-43)
築地反射炉跡(佐賀市長瀬町9-15・日新小学校校庭内)
種痘の像(佐賀県立病院好生館の正面庭園内・佐賀市水ヶ江1-12-9)
鍋島直正墓所(春日御墓所・佐賀市大和町久池井)
酔って候<新装版> (文春文庫)鍋島閑叟―蘭癖・佐賀藩主の幕末 (中公新書)
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