江戸二番町生まれ。千葉県茂原市ゆかりの偉人
1666(寛文6年2月16日)-1728(享保13年1月19日) 63歳
江戸時代中期の儒学者・思想家。
柳沢吉保や8代将軍徳川吉宗への政治的助言者。
本名は雙松(なべまつ)、徂徠は号。
将軍徳川綱吉侍医の子に生まれる。
弟は徳川吉宗の侍医で、明律研究で知られた荻生北渓。
14歳の時、上総本納村(千葉県茂原市本納)に流罪となり、江戸にもどるまでの11年間をこの地で住ごした。この間、生活は貧しく、苦学を続け、その後江戸へ出て、朱子学を勉強した。
柳沢吉保に見出されて幕府に仕え、徳川吉宗の内命によって「太平策」「政談」を著し、将軍の政治上の相談役を勤めた。柳沢吉保失脚後、職を辞し学問に専念した。
朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読む解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立した。江戸茅場町に蘐園(けんえん)塾を開き、徂徠派を形成した。聖人の道を明らかにした『弁道(べんどう)』などの著書で経世論を説くと共に、詩文の革新にも努めた。
吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。
1728年(享保13)に死去、享年63。
門人に経済理論の太宰春台(だざいしゅんだい)、詩文の服部南郭(はっとりなんかく)らを輩出し、この二人は、『徂徠門下の双璧』と称せられている。また、その文献学的方法態度は、国学に影響を与えました。
赤穂義士事件の時に、義士たちの処置をめぐり、柳沢吉保に、意見を求められ「擬自律書」と題する意見書を提出し、切腹を上申したことでも有名。
古文辞学派:荻生徂徠創始の古学の一派。伊藤仁斎(いとうじんさい)の古義学に対し、古典や聖賢の文辞に直接触れ、治国・礼楽の制を整えようとした。中国語自体が歴史的に変化していることをふまえ、古典を成立当時の意味で解釈しようとした。
『政談』:将軍吉宗の諮問に答えた幕政改革案。参勤交代の弊の打破、武士土着論などを説いた。
荻生徂徠勉学の地(千葉県茂原市本納2976-1)
荻生徂徠墓所・長松寺(東京都港区三田4-7-29)
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