大阪天満生まれ。阿波生まれという説もあり。
1793年(寛政5)年3月4日-1837(天保8)年5月1日 45歳
陽明学者、大阪町奉行与力。中斎と号す。
与力引退後、自宅で洗心洞という私塾(洗心洞)を開き陽明学を教授。頼山陽などとも交際を持った。天保の大飢饉の際に民衆救済のために蜂起(大塩平八郎の乱)するが、門人の密告によって奉行所の知るところとなったこともあって、すぐ鎮圧された。逃亡途中、四ツ橋のあたりで刀を捨て、靱のとある商家の蔵に隠れていたが、数ヶ月ほどの後、所在が発覚し、養子の格之助と共に火薬を用いて自殺した。明治維新の30年前の出来事であり、この事件が幕藩体制に大きな影響を及ぼしたことは間違いない。
著書に『洗心洞箚記』など。
大塩平八郎終焉地に追悼碑がある。
大阪市西区靱本町1丁目18番12号(天理教飾大分教会の敷地内)
大塩平八郎墓所 大阪市北区末広町・成正寺
関連書籍
この記事へのコメントはありません。