高木兼寛(たかぎ かねひろ)・宮崎の偉人
日向国東諸県郡穆佐村(宮崎市高岡町穆佐)生まれ。
1849(嘉永2年9月15日)-1920(大正9)年4月13日)72歳
海軍軍人、医学者で東京慈恵会医科大学の創設者でもある。
脚気の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」と呼ばれる。
「病気を診ずして病人を診よ」の名言を残す。
13歳頃、医師になるという志を立てる。
20歳で会津戦争に参加した経験から、「西洋医学を修得したい」と決心し、藩立開成学校(鹿児島医学校)に入学。英医ウィリアム・ウィリスについて、医学及び英語を学ぶ。
やがて、海軍省に入り、イギリス留学を志す。
27歳でイギリス留学を命ぜられ、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学する。
イギリス留学中、すぐれた施療病院を見て、「病気に苦しむ人を救済する施設を作ることが社会の義務だ。人間が何より苦しいのは貧乏のうえに病気になることだ。これを救わねば社会の発展はありえない。どうしても施療病院を作らねばならない。」と考えた。
1881(明治14)年、成医会講習所(東京慈恵会医科大学前身)設立、 1882(明治15)年には、有志共立東京病院(東京慈恵会病院の前身)を設立する。
1883(明治16)年、海軍将兵の脚気予防策として、海軍の兵食を改善する必要があることを明治天皇に奏上した。
1885(明治18)年、看護婦教育所(我が国初の看護学校)を設立。
当時の看護婦は、看護婦としての正式な教育を受けておらず、ナイチンゲール女史の創設した看護婦養成所を見習ったものであった。
同年12月には、海軍軍医総監に任ぜられる。海軍軍医総監の兼寛は、軍用食に麦御飯を採用し、脚気の予防に成功。この脚気予防法は、後のビタミン発見に大きく頁献。また、日露戦争時の日本海海戦の間接的な勝因とも考えられている。
1888(明治21)年、医学博士の学位を授与される。
1920(大正9)年、永眠。兼寛の医学界での功績は、「イギリスのような医療体系を早く日本にも作り上げたい」そして、「病人のための医学であって欲しい」という大きな志からうまれたものであるにちがいない。
兼寛の残した言葉。「病気を診ずして病人を診よ」
南極大陸に「高木岬」という地名がある。これは、高木兼寛の名前が由来である。また、イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは、兼寛を世界の八大ビタミン学者として写真入りで紹介し、兼寛の業績を紹介しています。このような功績から人々は、高木兼寛を『ビタミンの父』と呼んだのである。
高木兼寛生誕地(宮崎市高岡町穆佐)
高木兼寛墓所 東京青山霊園
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