埼玉の偉人

【治水、水利の神様・見沼干拓の父】井沢弥惣兵衛為永(いざわ・やそべえためなが)・埼玉/和歌山の偉人

井沢弥惣兵衛為永(いざわ・やそべえためなが)・埼玉/和歌山の偉人

紀伊国那賀郡溝ノ口村(和歌山県海南市野上新)生まれ。

寛文3年(1663)‐元文3年(1738)3月1日 76歳

水の匠・水の司―“紀州流”治水・利水の祖 井澤弥惣兵衛

彼の生年には2説がある。東京・千代田区麹町の菩提寺心法寺に残る墓碑と海南市野上新の井澤家墓地にある墓碑銘には「元文三年(一七三八)三月朔日(ついたち)没、行年七十六」とある。これから逆算すると寛文3年(1663)の生まれとなる。江戸幕府が編集した大名、旗本、幕臣らの系譜を綴った『寛政重修諸家譜』では没年は同じだが、行年が85歳となっている。これに従うと、承応2年(1653)ころの生まれとなる。後年、弥惣兵衛が江戸幕府に召し出されたのは享保7年(1722)であるが、幕臣となった年齢は、没年が76歳だと考えると59歳か60歳、没年を85歳だとすると68歳となる。生年は大方の歴史書などの記述にならって寛文3年(1663)をとる。

幕臣、普請奉行、勘定吟味役、紀州流土木技術者。
見沼干拓、見沼代用水開削、多摩川改修、手賀沼の新田開発などを手がけ、「治水・水利の神様」と称される。

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始め紀州徳川家に仕えたが吉宗公が将軍となるや招かれて幕臣となる。

水の匠・水の司―“紀州流”治水・利水の祖 井澤弥惣兵衛

『南紀徳川史』(和歌山藩史料集、明治中期編集)によると、井澤家は戦国時代、武将・三好豊後守義賢の家臣井上数馬守正継(この名は「伊沢系図」にも正国の父として記されている)より出で、子孫井上民部卿が根来寺で僧侶となり、根来寺炎上後に野上谷に亡命して溝ノロ村の井澤の姓籍を買って井澤新太郎を名乗り、その子弥太夫が弥惣兵衛の父に当たる、との説を記している。
・・・
弥惣兵衛は初等教育を寺子屋で、また基礎教養を野上ハ幡宮宮司、それに菩提寺の宗光寺住職などから受けたと考えられる。漢詩文はもとより、数理の理解力に優れており「黒澤山の天狗に学問を教わった」と語られたという。黒澤山は野上新の南方に広がる霊山(標高509メートル)である。この逸話は彼の秀でた理数的才能を伝えるものだが、彼の超自然的なものに対する感性(宗数的な感性も含む)を示していないだろうか。
成人して以降は、農業土木の専門書(『水利全書』など)や数学の図書(『因帰数歌』、『格致算書』など)を読破し、父に従って治水・利水の実践を積んでいった。父に連れられて紀三井寺に詣でる途中、亀の川の蛇行を見て「直線の河道に改修すれば洪水をいち早く流すことかできる。農民を水害から救えるし、水田も広がる」と父に語ったとの逸話がある。後世名をなす土木技術者の少年の日の逸話にしては、うがち過ぎである。だか、こうした噂話が語り継がれて来たことに注目したい。根来衆の子孫として鉄砲や剣術に長じていたが、乗馬も得意だった。野上八幡宮の秋季例祭の呼び物は馬駆け(競馬)であり各地区より馬を出し合った。青年時代の弥惣兵衛はこの馬駆けに必ず参加して好成績を残した。馬駆けは紀北及び紀中地区ではよく知られた恒例行事だった。

近江・下総・播磨などの新田を検し、摂津・河内・甲斐・信濃などの諸河川の普請を担当したが、のち勘定吟味役となり、享保12年(1727)筧播磨守、鈴木平十郎とともに足立郡に横たわる見沼の干拓事業を進めた。

為永は紀州流の土木技術をもって旧芝川の水路を拡張して見沼の溜水を荒川に落とし、見沼の地に新田1175町歩を得、この灌漑用水として翌13年埼玉郡下中条村(埼玉県行田市)から利根川の水を導水する延々60キロに及ぶ見沼代用水路を掘った。

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弥惣兵衛は見沼干拓にあたり、まず、開発に反対する下流域の農民に対し、溜井にかわる用水を引く計画であることを説明して納得させ、享保11年に測量に着手した。工事は翌12年8月から開始し、利根川右岸の下中条(行田市)に取水口を設け、見沼までの延長約60キロの水路が完成したのは翌13年春であった。わずか5ヵ月ほどの渇水期を利用して実施されたものである。
途中星川筋を刊用して導水し、元荒川と交差する柴山(白岡町)では掛樋を造りその上を通水し(後宝暦9年に元荒川の川底を通る伏越に改造)、さらに綾瀬川との交差点でも掛樋(瓦葺掛樋)で通し、その下流で東縁・西縁の両用水路に分流させ、見沼のかわりの用水路としたのである。これと同時に溜井内の排水のため、中央部の芝川を拡張し荒川に放流した。これらの工事は、短期間に実施されたにもかかわらず、ほとんどくるいがなかったといわれ、井沢氏の土木技術の水準の高さは驚くべきものであった。
これにより開かれた新田は1万2千町歩にもなり、見沼沿村17ヵ村へ30町歩から2百町歩を、1反歩につき田は1両、畑は銀21文、3ヵ年賦で割り当てたのである。
さらに、この代用水路の開さくは、たんに見沼の開発だけでなく、沿線各地に豊富な用水を供給できるようになったため、諸沼の干拓が進められ、6百町歩余の新田が開発されたのである。

さらにこれに通船堀を設けて水運の便をはかった。

『井沢弥惣兵衛―大江戸の繁栄を支えた見沼代用水生みの親』(見沼代用水土地改良区)

見沼代用水をわずか半年で完成させた弥惣兵衛さんが次に、手がけたのが「通船堀」です。
現代のように、自動車があるわけではありませんから一度に沢山の荷物を運ぶには、船を利用(舟運)するしか方法がありませんでした。新田開発がなされると、収穫物を江戸に運ぶには、船が行き来できなければなりません。しかし、芝川から見沼代用水まで高低差が3メートルもあります。このままでは、船だけの力ではとうてい上れません。そこで、「閘門式の運河」を考えました。この運河は、かつて、八丁堤があったところに設けられました。すなわち、芝川と見沼代用水をつなぐ水路を造り、ここに水位を調整できる二つの閘門を設けました。この二つの閘門を開けたり、閉めたりしながら、船を運び上げたのです。パナマ運河も同じしくみになっていますが、弥惣兵衛さんのものより、180年も後になって造られました。
通船堀の完成で、新田開発の収穫物が江戸へ、また、江戸からは、日用品や肥料などが武蔵の国(埼玉県)へ運ばれるようになりました。武蔵の国が江戸の台所を支える穀倉地帯になり、江戸の繁栄と文化も武蔵の国へもたされるようになったのです。

開削後、水路近辺の黒沼・笠原沼・河原井沼・栢間沼および与野の鴻沼などが相ついで開かれ、約600町歩の新田が聞かれた。

享保20年、美濃郡代を兼ねたが、元文3年(1738)76歳で没し、江戸麹町6丁目の浄土宗心法寺に葬られた。

見沼代用水開削によって恩恵をこうむった人々が追福の石碑を下中条(行田市)元圦提、柴山(菖蒲町)常福寺、片柳(大宮市)万年寺に建立した。『埼玉県大百科事典』

水の匠・水の司―“紀州流”治水・利水の祖 井澤弥惣兵衛

徳川幕府「中興の祖」とされる第八代将軍吉宗の治世は享保改革という一大変革期であった。<米将軍>吉宗は行き詰った財政事情を打開するため全国規模での新田開発を奨励した。その厳命を受け先頭に立って新田開発を指揮したのが幕府勘定吟味役本役(最終地位)井澤弥惣兵衛であった。
地方巧者弥惣兵衛の生涯は異例ずくめと言えよう。士農工商の身分制度が確立されている中で、紀州の山間地の一介の農民(豪農)から若くして紀州藩士に登用され治山治水に功績を残し、さらには60歳(還暦)となって幕臣(御目見得以上の官職)に取り立てられ江戸に出た。一連の人事はすべて吉宗が行ったが、これは驚くべきことである。彼のような農民から階級の厚い壁を飛び越え三段跳びのような出世栄達を果たした人物は江戸時代を通じて他に多く例を見ないと思われる(もっとも吉宗自身も紀州藩士になれないと自他ともに認めていた男が55万石余の藩士となり、あげくに将軍にまで上りつめた)。
・・・武士階級ですら下級武士の昇進を妨げる障壁が厚かった時代にあって、弥惣兵衛の昇進は将軍吉宗が側近を紀州藩出身者で固め紀州閥人事を行ったことが背景にあったとしても異例中の異例であり、ひとえに彼の人格と傑出した技量が高く評価されたことによろう。荒野を拓くには高度な専門知識と実践的技術力それに指導力が不可欠であることは論をまたない。
栄光の座にあって惣兵衛は将軍の意向を体し、近畿地方から関東甲信越地方にかけて、一大新田開発を指揮した。彼は自らの紀州流土木技法という独自の技術(「用排水分離方式」)を導入し、それを全国的に展開した。湖沼や湿地を用水路と排水路に分離した上で干拓し、山林原野を開き、堤防を高く構築して河川の幅を狭め川のそばまで水田を広げ、河川敷までも耕作地とした。空前の大自然改造(見方を変えれば一大乱開発)であった。彼は高齢でありながら自らの身体に鞭打つように働き統け、新田開発や河川改修などの現場に立って多くの実績を残した。70歳を過ぎても第一線から退くことが出来なかった。この史実は私を驚かせ胸を熱くさせる。男子の人生が50年とされた時代である。

井沢弥惣兵衛生誕地碑(和歌山県海南市野上新)

野上八幡宮(和歌山県海草郡紀美野町小畑625)

海南歴史民俗資料館(和歌山県海南市木津233-23)

海南市の歴史や文化伝統産業等広い分野にわたって紹介する常設展示を行っており、市内から出土した埋蔵文化財や大野城、熊野古道、井沢弥惣兵衛、昔のくらし、地域の発展に尽くした人々、伝統産業について写真パネルなどを展示している。

根来寺(和歌山県岩出市根来2286)

井沢弥惣兵衛顕彰碑(亀池公園・和歌山県海南市阪井)

井沢弥惣兵衛銅像(見沼自然公園・埼玉県さいたま市緑区南部領辻2596-1)

見沼通船堀(埼玉県さいたま市緑区大間木1934-2)
日本最古の閘門式運河、国指定史跡に指定されている。

さいたま市立浦和博物館(埼玉県さいたま市緑区三室2458)

【見沼の竜神】

埼玉歴史探訪―歩く、観る、感じる、学ぶウオーキングハンドブック

井沢弥惣兵衛為永が見沼干拓の命を受け、天沼の大日堂に詰めて準備を進めていました。ある夜のこと美しい女が為永を訪ねてきていうには、「私は見沼の竜神です。私の棲むところがなくなってしまいますので、あたらしい棲家が見つかるまで、工事を中止して欲しい」と。
気丈な為永は気にも留めず、工事を続行しました。ところが負傷者が続出するやら、為永も病に倒れる始末で工事にも差し支えがでました。
ある日村人の葬式があって、葬列が国昌寺の山門を通ろうとすると、にわかに黒雲が立ち込め、暴風が吹き荒れて、お棺は宙に舞い上がり、何処ともなくさらわれていってしまいました。村人たちは葬式の行列はこの門を通らぬようになり、この門をクギ付けにし、「開かずの門」と呼ぶようになりました。
また美女が夢に現れて、「私が病気を治してあげますから、願いを聞いてください」といいました。困った為永は宿舎を万年寺に移し、竜神灯をそなえました。それからは、何事も起こらなくなったそうです。

国昌寺(埼玉県さいたま市緑区大字大崎2378)

万年寺・井沢弥惣兵衛顕彰碑(埼玉県さいたま市見沼区片柳1-155)

大日堂(埼玉県さいたま市大宮区天沼町1-387)

竜神像(JR東浦和駅・埼玉県さいたま市緑区東浦和1-23-2)

元圦祠と記念碑(見沼代用水元圦公園・埼玉県行田市須加3798)

砥根河重疏碑(埼玉県北葛飾郡松伏町金杉651)

井沢弥惣兵衛墓碑(常福寺・埼玉県南埼玉郡白岡町柴山1099)

明和4年(1767)為永30年祭にあたり、この常福寺に、水路沿線の農民が為永の功績に感謝し、心法寺から分骨して墓石を建てた。

井沢家墓地(和歌山県海南市野上新)

井沢弥惣兵衛墓所(心法寺・東京都千代田区麹町6-4-1)

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