大坂・北堀江生まれ。
1736年11月28日-1802年1月25日
江戸中期の博物学者、文人。「浪速サロンの博物学者」。
代々酒造業を営み、庭の井戸から出た古芦(あし)の根にちなんで、書斎を蒹葭堂と名づけた。
幼時より植物に親しみ、本草学者小野蘭山に入門、生涯考索に努めた。
池大雅らに絵画を学び、片山北海に漢詩文を、篆刻は高芙蓉に学んだ。
書画骨董や奇品の収集と考証で知られ、諸方の名士が来訪した。遠近よりの来訪者名簿『蒹葭堂日記』は当時の文運をうかがう好資料である。
寛政2年(1790)酒造過多により謹慎のとがめをうけ、伊勢国長島藩増山雪斎の領内に退去。
享和2年(1802)1月25日没。
木村蒹葭堂邸跡(大阪市西区北堀江)
木村蒹葭堂墓所(大応寺・大阪市天王寺区餌差町)
江戸人物科学史―「もう一つの文明開化」を訪ねて (中公新書)
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