北海道の偉人

黒田清隆(くろだ・きよたか)・鹿児島/北海道の偉人

黒田清隆(くろだ・きよたか)・鹿児島/北海道の偉人

鹿児島市山之口町生まれ。

天保11年(1840)10月16日-明治33年(1900)8月23日 61歳

政治家。第2台内閣総理大臣。
総理在職期間 明治21年(1888)4月30日~明治22年(1889)10月25日:544日
総理就任時年齢 47歳

黒田清隆2
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

父は鹿児島藩士。
薩長連合の成立に寄与。

戊辰戦争では追討参謀として、五稜郭の戦いを指揮。
敵将榎本武揚の助命に奔走。

維新後は開拓次官、のち参議兼開拓使長官として、札幌農学校の設立、屯田兵制度の導入など北海道開発に尽力した。

日朝修好条規の締結、樺太・千島交換条約の実現にも尽力。

大久保利通の没後、薩摩閥の長老として、北海道官有物払下げ中止に反対して、明治14年の政変により開拓長官を辞任。

第1次伊藤内閣の農商務相をつとめたのち第2代内閣総理大臣となり、大日本帝国憲法の発布式典にかかわった。
その際「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする、超然主義の演説は有名。
大隈重信外務大臣と条約改正を試みるが失敗。

首相辞任後は元老として活動し、枢密顧問官、枢密院議長等なども歴任した。

黒田清隆生誕地(鹿児島県鹿児島市山之口町)

黒田清隆墓所(青山霊園・東京都港区南青山)

黒田清隆1
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

鹿児島市ウェブサイト

黒田清行の長男として城下新屋敷(現・山之口町)に生まれた。通称は了介といった。
薩摩藩の砲隊に入り、薩英戦争後は大山巌などと江戸の江川塾に入り西洋砲術を学んだ。
一八六五年(慶応元)、西郷隆盛の使者として長州に行き木戸孝允などの上京のために働き、翌年正月、薩長同盟を成立させるため奔走した。
戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いの後、北陸道鎮撫総督参謀となって功績をたて、降伏した庄内藩に西郷と一緒に寛大な処分を行い、薩摩と庄内連携の糸口をつくった。
一八六九年、函館征討参謀となって、五稜郭にたてこもった榎本武揚などを降伏させ、生命をかけて彼の命を助けた。
このことは、世間の人に武人のかがみと称えられた。
また、榎本武揚と一生、無二の親友となり、親戚関係まで結んだ。
外務権大丞、兵部大丞の役職に任命され、一八七〇年(明治三)には開拓次官となり、留学生を率いてアメリカへ渡った。
また、現職の農務局長ホーレス・ケプロンを招いたり、技術者を育てるための開拓使仮学校も建てたりして、北海道開拓の基礎を築いた。
一八七四年(明治七)に陸軍中将、次いで参議、開拓長官となった。
翌年、特命全権弁理大臣として朝鮮に渡り、江華島事件を処理した。
西南戦争には征討参軍として参加したり、北海道開拓長官のとき、開拓使官有物払い下げ事件を起こしたりもした。
第一次伊藤博文内閣の農商務大臣となり、一八八八年(明治二十一)、大日本帝国憲法発布のときには第二次内閣総理大臣であった。
その後、枢密顧問官や逓信大臣などの役職につき、一八九五年(明治二十八)には枢密院議長となり、その五年後の八月二十三日に亡くなった。
(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)

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