程順則(てい・じゅんそく)・沖縄の偉人
琉球国久米村(沖縄県那覇市久米)生まれ。
1663年11月27日-1735年1月1日
江戸時代中期の琉球王国の士族。
政治家、儒者。
高潔な人柄で名護聖人とも称された。
儀間真常、羽地朝秀、蔡温、宜湾朝保とともに「琉球の五偉人」と称される。
琉球名は寵文(ちょうぶん)。
久米村程氏の出身で位は親方、領地は名護間切で名護親方と称した。
1683年進貢在留役として中国に渡り、福州琉球館に4年間留まり儒学を学んだ。
その後も5度中国に渡り、その間、明の太祖が庶民に下した勅諭「六諭衍義(りくゆえんぎ)」を持ち帰った。
この書は薩摩藩を経て江戸幕府に献上され、荻生徂徠の訓点、室鳩巣の和訳により刊行され、近世庶民教育(寺子屋)の教科書として日本各地に流布した。
正徳3年(1713)江戸に上り、新井白石らと会見している。
久米村の聖廟と琉球で最初の公的教育機関・明倫堂創設を建議した。
程順則は、1663年、那覇の久米村に生まれた。順則というのは中国名で、沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。
近世の沖縄を代表する政治家である。
66歳のとき、名護間切の総地頭(そうじとう:今の市長)となり、名護親方と称するようになるが、その功績や人徳から尊敬を集め、名護聖人とも呼ばれた。
彼は、また文学者、教育者としても名高く、漢詩集を出したり、1718年には琉球で初めての学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立している。
程順則は、20代の頃から5回中国に渡って学問を深めている。
程順則が中国から琉球に持ち帰った教訓書である「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には、人が人として守らなければならない六つの教え(六諭)が分りやすくまとめられている。
この本は、八代将軍吉宗に献上後、和訳され、江戸時代の寺子屋の教科書として全国に広く普及し用いられた。
彼が亡くなったあと、名護間切番所(今でいう市役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(ミジウガン)」といって、「六諭」の書を掲げ、遺徳を偲んでいる。
この儀式は現代にも引き継がれている。(名護市役所ウェブサイトより)
六諭(聖諭)
孝順父母
父母(ふぼ)に孝順(こうじゅん)なれ父母に孝行しなさい
教訓子孫
子孫(しそん)を教訓(きょうくん)せよ子孫を教え導きなさい
尊敬長上
長上(ちょうじょう)を尊敬(そんけい)せよ目上の人を尊敬しなさい
各安生理
各(おのおの)生理(せいり)に安(やす)んぜよ各々の生業にあまんじなさい
和睦郷里
郷里(きょうり)は和睦(わぼく)せよ村里にうちとけなさい
母作非為
非為(ひい)を作(な)すなかれ悪いことをしてはならない
程順則銅像(名護博物館・沖縄県名護市東江1-8-11)
明倫堂(久米至聖廟・沖縄県那覇市若狭1-25-1)
沖縄人物伝・程順則(琉球文化アーカイブ)
程順則墓所(識名霊園・沖縄県那覇市識名2)
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